今年は蝉が鳴き始めるのが遅かったような気がする。といっても「気がする」だけで、実際には例年通りだったのかもしれない。あまりに夏を待ち望んでいたから。まだかまだかとやきもきしている間は、そうでないときよりも時間の流れがゆっくりになるものだ。
夏が好きなので、梅雨が明けたというニュースを聞いたときには本当に嬉しかった。空の青がどこまでも澄んで見えた。ちょうど牧場にいて実習の講義を受けていたときだった。牛舎の蒸し暑さと干草の爽やかでほのかに甘い香りの中で、遠くから1匹の蝉の声が聞こえてきたのをよく覚えている。ああ、夏だ、と思った。
今月観たのは、映画館でマイケル・マン監督のフェラーリ、アマプラで配信されていたThe Idea of You、ナイル殺人事件、それから劇団四季のオペラ座の怪人。
フェラーリは、実話であるというのが恐ろしいという一言に尽きた。時代と価値観による犠牲の話だと受け取った。レースシーンの興奮と、ストーリーの冷酷さとの対比で、まるでサウナにでもいるかのような気分になった。しかし、最近は英雄をリアルな等身大の一男性として描くのが流行っているのだろうか(リドリー・スコットのナポレオンもそうだったが……)。両作品は食卓での獣のようなセックスシーンが共通していたこともあり、印象的・対比的に鑑賞した。
The Idea of Youは、ハリー・スタイルズのノンフィクション的小説の実写化作品だったらしい。基本的にはアイドルと一般女性の歳の差ラブコメづトーリーなのだが、主演のアン・ハサウェイが美しすぎて、歳の差感が薄れていたような気がした。二人の交際が炎上するシーンが描かれていたが、アン・ハサウェイとの交際なんてどんなアイドルファンでも認めざるを得ないだろ、と思ってしまった。一方で、「男性アイドルが一般女性に一目惚れする」という設定の説得力はこれ以上なかった。アン・ハサウェイに一目惚れしない人類なんて存在しない。
ナイル殺人事件はアガサ・クリスティの小説「ナイルに死す」を新たに実写映画化したもので、数年前の作品だ。原作にも触れたことがなかったため、完全に初見のトリックだったのだが、見事に驚かされた。「オリエント急行殺人事件」を観たときにも思ったが、アガサ・クリスティは凄すぎる。そして、お手軽に景気の良い気分と異国情緒を味わえるという点もポアロシリーズの良さだなと感じた。久々に沢木耕太郎の深夜特急も読みたいと思う。
劇団四季のオペラ座の怪人は、すでに感想を載せているから深掘りはしないけれども、やはりよかった。ミュージカルとしての完成度の高さは信頼できるので、安心して観にいくことができる。デートで来ているカップルも散見されたので、いつか自分もミュージカルデートなるものをしてみたいな、と思ったり思わなかったりもした。
今月読了した本は森瑤子の「指輪」、佐藤究の「テスカトリポカ」、サガンの「悲しみよこんにちは」の三冊。他の短編集を一編ずつ細々と読み進めてもいたが、今月中の読了とはならなかった。
森瑤子の「指輪」は、生々しく愛や恋や性を描き出していながら、どこまでも美しく品があるのが印象的だった。正直なところ、かなり好きだった。他の森瑤子作品も要チェックだなあと思う。
佐藤究の「テスカトリポカ」は最近読んだ本の中で一、二を争うほどのエクスタシーを味わうことのできる作品だった。特に終盤の疾走感とラストの独特な清々しさが忘れられない。しばらく経って記憶の輪郭がぼやけた頃、また読み返したいと思う。
サガンの「悲しみよこんにちは」は誰もが知っている名作だが、今回初めて読んだ。夏の海辺と別荘という爽やかな舞台で繰り広げられるほろ苦いひとときに衝撃のラスト。甘さに騙されて気付かずに強いお酒を飲み干したときのようで、クラクラさせられた。
最近はそういう、恋を失う物語ばかりに触れている気がする。それはたぶん、自分自身の恋がどこまでも順調だからなのだと思う。実生活で愛の幸福に触れているから、悲恋を疑似体験して、現実と創作との対比で心をキンと冷やして、再び現実の猛暑に、あるいは恋人の体温の中に戻っていく準備をしようとしているんじゃなかろうか。なんとも贅沢なものである。
閑話休題。
まだ夏は始まったばかりのような気がしていたが、あっという間にもう8月になる。気づけば一瞬で夏休みも終わってしまうんだと思う。資本主義や家制度や、そのほかいろいろなものに取り込まれ巻き込まれ我を見失うのが怖いような気がしている。そんなことになるくらいなら、いっそ湘南の白い波にこの身を攫われたいとすら思ってしまう。
そうはいっても、実のところ現時点では生活上の大抵のことはうまくいっているのだ。全部が高望み、あるいは自分の気持ちと他人からの視線との間で揺らいでいるだけ、なのだと思う。何者でもない己を抱きしめてくれるひとのことを目一杯幸福で満たすことができれば、もうそれで良いはずなのに。愚かな心を持て余しながら、生きていくしかないのだろうか。