匿名

日記

2024.08について

寝そべった竜の首のように、低く長い尾根が幾筋か伸びていた。先ほどまで遠くに見えていた入道雲が、今や目前に迫り、空を厚く覆っている。所々の隙間から覗く青が眩しい。線路沿いの蔦の緑は濃い。涼しい列車の窓から外を眺めている分には、まだまだ夏が続いていきそうにも思えるが、実際外に出てみると初秋を感じる風が吹き始めているのである。

八月ももう終わる。

夏が好きな私にとっては、ほんの少し切ない。

今月の初め、恋人と共に熱海を訪れたときには、夏は永久に続くかのように感じたのだった。一人で踊り子号に乗り下田を目指している今からすると、途方もない大昔のことのように思える。あのときも、今日のような曇天であった。それにもかかわらず明るい景色の記憶しかないのは、感情による記憶の修正能力のせいだろうか。鈍色の相模灘は優しく凪いで雲の隙間の仄かな陽光に鏡面の如く煌めき、 來宮神社の御神木はすこし湿ってむしろ程よい温もりを湛えていた。夜には雲が綺麗に去って、真黒の空には大きな花火が咲いていた。私のすぐ横には人肌があった。

小雨が降り始めた。列島に近づきつつあると報じられている、台風のせいなのかもしれない。次の駅は熱海だと伝えるアナウンスが流れた。このまま降りてしまいたかった。

 

今月は、デュマ・フィスの椿姫を読み返し、西崎憲の本の幽霊を読み、ソラリスを読んだ。本の幽霊は、今年の初めの京都旅行で装丁に一目惚れして買ったものだ。内容どころか作者すら知らないまま手に取ったので、中を読むのが楽しみで、楽しみなあまりずっとずっと寝かせていた。せっかく旅先で買ったのだから旅先で読みたくて、福岡旅行の行きの飛行機の中で読み終わった。少し不思議な短編集で、三崎亜記や一條次郎作品が好きな私にとってはどれも楽しく、一瞬で読み終わってしまった。冬の話がいくつか収められていて、本を閉じたときには少し寒気を覚えた。あるいは機内の空調が効きすぎていただけかもしれないが。

今月観た映画はプライドと偏見、オデッセイの二本だけ。映画の方はどちらも明るく前を向ける作品で、悪くはなかった。特にオデッセイは、インターステラーと同じくらい好きだと思った。スリルと勇気と人間への喜びとをちょうどよく味わうことができる。ハリウッド映画らしい映画といえよう。

 

伊東に着いた。左側の車窓からは、水銀のような海が目に入る。下田まではまだ遠い。駅には色褪せた紅の百日紅が咲いていた。

長いトンネルと山間の町並みとを幾度か通り過ぎる。雨は降ったり止んだりしている。右手の山々は霧に巻かれてどこか厳かな雰囲気すらある。竹や松のあいだに椰子か棕櫚のような南国風の葉が見えて、伊豆らしさを感じる。

トンネルを抜け、再び左手に目をやると、海の方は青く晴れ上がり、空には白くご機嫌な綿雲がふわふわと浮かび、遥かに見える白波が束の間リゾート気分を味わわせた。と、またもやトンネル。

伊豆高原の付近には別荘と思しき家々が軒を連ねている。羨ましいものである。そのうちの一軒の生垣に咲いていた、紫がかった濃紺の朝顔が眩しい。

伊豆熱川に着く頃には、まっすぐな陽の光が車内に差し込むほどの晴天となっていた。トンネルを抜けるのが待ち遠しかった。外には夏が満ちていた。湯けむりの向こうに望む海は、なんとも贅沢なものだ。

 

湯けむりといえば、先日の福岡旅行で訪れた二日市も湯ざわりの良い温泉だった。とろっと肌に吸い付くようなお湯は少し熱くて、体の強張りが緩むのを感じた。冷房のよく効いた和室で、既に敷かれていた布団のピンと張った真白なシーツに体を横たえる。気がつけば朝だった。食堂で朝食を取る。味噌汁、焼き魚、明太子、湯豆腐、漬物数種、サラダ、味のり、ご飯はおかわり自由。くちくなった腹をさすりながら旅館を少し探索してみると、白くまの剥製や大きな壺、昭和に取り残されたかのようなアーケードゲームなどが見つかり、大満足である。庭の錦鯉を眺めているうちに、もうチェックアウトの時間になっていたのだった。

 

ふと気がつくと、海の真横を走っていた。見渡す限りの海である。水平線が視界の端から端までを覆っている。空と海の青が混じり合い、雲と波の白が眩しく、全身が青と白の中に溶けていくような気すらした。漁港のある町並みが見えてくる。そこかしこに少し錆びた看板が見える。磯料理。赤尾ホテル。金目鯛。田村丸。伊豆稲取に着いた。

河津は住宅街といった感じだった。確か桜が有名な町だったように思う。次は春にでも来てみようかしらん。

あっという間に下田である。右手にはとんがり帽子のような山。無限に続くと思われた往路も、着いてみれば一瞬のことだった。空はまた雲が厚みを増してきたようだったが、不思議と、暗い気持ちにはならなかった。晴天と海のコントラストを眺めることができたからだろうか。つくづく私は簡単な心の持ち主であると思う。案外悪くない一人旅であった。が、次はプライベートで、できることならデートなどのために、踊り子号に乗りたいものだ。

2024.07について

今年は蝉が鳴き始めるのが遅かったような気がする。といっても「気がする」だけで、実際には例年通りだったのかもしれない。あまりに夏を待ち望んでいたから。まだかまだかとやきもきしている間は、そうでないときよりも時間の流れがゆっくりになるものだ。

夏が好きなので、梅雨が明けたというニュースを聞いたときには本当に嬉しかった。空の青がどこまでも澄んで見えた。ちょうど牧場にいて実習の講義を受けていたときだった。牛舎の蒸し暑さと干草の爽やかでほのかに甘い香りの中で、遠くから1匹の蝉の声が聞こえてきたのをよく覚えている。ああ、夏だ、と思った。

今月観たのは、映画館でマイケル・マン監督のフェラーリ、アマプラで配信されていたThe Idea of You、ナイル殺人事件、それから劇団四季オペラ座の怪人
フェラーリは、実話であるというのが恐ろしいという一言に尽きた。時代と価値観による犠牲の話だと受け取った。レースシーンの興奮と、ストーリーの冷酷さとの対比で、まるでサウナにでもいるかのような気分になった。しかし、最近は英雄をリアルな等身大の一男性として描くのが流行っているのだろうか(リドリー・スコットのナポレオンもそうだったが……)。両作品は食卓での獣のようなセックスシーンが共通していたこともあり、印象的・対比的に鑑賞した。
The Idea of Youは、ハリー・スタイルズのノンフィクション的小説の実写化作品だったらしい。基本的にはアイドルと一般女性の歳の差ラブコメづトーリーなのだが、主演のアン・ハサウェイが美しすぎて、歳の差感が薄れていたような気がした。二人の交際が炎上するシーンが描かれていたが、アン・ハサウェイとの交際なんてどんなアイドルファンでも認めざるを得ないだろ、と思ってしまった。一方で、「男性アイドルが一般女性に一目惚れする」という設定の説得力はこれ以上なかった。アン・ハサウェイに一目惚れしない人類なんて存在しない。
ナイル殺人事件アガサ・クリスティの小説「ナイルに死す」を新たに実写映画化したもので、数年前の作品だ。原作にも触れたことがなかったため、完全に初見のトリックだったのだが、見事に驚かされた。「オリエント急行殺人事件」を観たときにも思ったが、アガサ・クリスティは凄すぎる。そして、お手軽に景気の良い気分と異国情緒を味わえるという点もポアロシリーズの良さだなと感じた。久々に沢木耕太郎深夜特急も読みたいと思う。
劇団四季オペラ座の怪人は、すでに感想を載せているから深掘りはしないけれども、やはりよかった。ミュージカルとしての完成度の高さは信頼できるので、安心して観にいくことができる。デートで来ているカップルも散見されたので、いつか自分もミュージカルデートなるものをしてみたいな、と思ったり思わなかったりもした。

今月読了した本は森瑤子の「指輪」、佐藤究の「テスカトリポカ」、サガンの「悲しみよこんにちは」の三冊。他の短編集を一編ずつ細々と読み進めてもいたが、今月中の読了とはならなかった。
森瑤子の「指輪」は、生々しく愛や恋や性を描き出していながら、どこまでも美しく品があるのが印象的だった。正直なところ、かなり好きだった。他の森瑤子作品も要チェックだなあと思う。
佐藤究の「テスカトリポカ」は最近読んだ本の中で一、二を争うほどのエクスタシーを味わうことのできる作品だった。特に終盤の疾走感とラストの独特な清々しさが忘れられない。しばらく経って記憶の輪郭がぼやけた頃、また読み返したいと思う。
サガンの「悲しみよこんにちは」は誰もが知っている名作だが、今回初めて読んだ。夏の海辺と別荘という爽やかな舞台で繰り広げられるほろ苦いひとときに衝撃のラスト。甘さに騙されて気付かずに強いお酒を飲み干したときのようで、クラクラさせられた。

最近はそういう、恋を失う物語ばかりに触れている気がする。それはたぶん、自分自身の恋がどこまでも順調だからなのだと思う。実生活で愛の幸福に触れているから、悲恋を疑似体験して、現実と創作との対比で心をキンと冷やして、再び現実の猛暑に、あるいは恋人の体温の中に戻っていく準備をしようとしているんじゃなかろうか。なんとも贅沢なものである。

閑話休題

まだ夏は始まったばかりのような気がしていたが、あっという間にもう8月になる。気づけば一瞬で夏休みも終わってしまうんだと思う。資本主義や家制度や、そのほかいろいろなものに取り込まれ巻き込まれ我を見失うのが怖いような気がしている。そんなことになるくらいなら、いっそ湘南の白い波にこの身を攫われたいとすら思ってしまう。

そうはいっても、実のところ現時点では生活上の大抵のことはうまくいっているのだ。全部が高望み、あるいは自分の気持ちと他人からの視線との間で揺らいでいるだけ、なのだと思う。何者でもない己を抱きしめてくれるひとのことを目一杯幸福で満たすことができれば、もうそれで良いはずなのに。愚かな心を持て余しながら、生きていくしかないのだろうか。

いつだかの梅雨の日の憂鬱

恋や他人に期待するのをやめてから、人生は穏やかになったが、ほんの少しだけ日々がつまらなくなったような気がする。優しく可愛い恋人と、湿っぽい世界から切り離されたような二人きりの部屋と、嘘みたいな明るさの蛍光灯と、いつも大差ない他愛のない会話。刺激もないが苦しみもない。平均値の幸福度はこれまでよりずっと高いような気もする。大人になるというのは、こういうことなのだろうか。こういうことなのかもしれないな。

最近の人生の煌めきは、勉強でも仕事でも恋愛でも友達付き合いでもなく、犬と歩く夕暮れの風の中や、一人歩く夜の月光の中にある。風が木々や草花を揺らすのが美しい。葉の上の露を振り落とすのが興味深い。東京の夜空は暗いから、ぽやっとまあるい月はなんとも孤独に見える。アルコールよりもカフェインで昂っているときの方が、世界は美しく見える気がする。空の色の移り変わりや雲の動きなんかが、いつもよりもはっきりと心をくすぐるのだ。

自分のためだけに料理をするのも、案外悪くないということに気がついた。誰にも気兼ねしないで、思いっきり野菜をたくさん入れたスープを作ったり、サラダにナッツを乗せたり、ナスやズッキーニのグリルに大量のピンクソルトとブラックペッパーをかけたりする。ソルトミルやペッパーミルガリガリするあの感触が好き。

心の不調はたいてい体の不調が原因だ。たいていのことはどうとでもなるから、負の方向に心を動かすことにはあまり意味がない。出来るだけ体が楽であるように生きれば、自然と心も楽になっていくものなんだと、思う。

 

ああ、それでも、何を言っても、何をしても、結局さみしさだけはどうにもならない。喩えるなら、早朝の品川駅の新幹線乗り場近くのスターバックスに一人でいて、人通りのまばらな駅をぼんやり見下ろしているときのような感覚に近い。皮膚の存在が憎い。他人が他人でしかないのが苦しい。ボサノバを掛けて、さっき作ったトマトスープを飲んでいたら、冷房の風のせいでどんどんスープが冷めていった。夏なのに、寒い。嫌だ嫌だ。

劇団四季オペラ座の怪人を観た

日が沈んでもまだまだ気温は高い。はちみつのように粘っこくまとわりついてくる夕風が髪をさらう感覚に目を細めながら、すこし足早に帰路に着く。今日はKAATでオペラ座の怪人を観たのだった。

 

劇場に入った瞬間、真紅の座席の波が目に眩しい。既にオーケストラはピットに入っているようで、フルートだろうか、練習している高い音に気分が昂る。開演前のざわめきが好きだ。期待に上ずった囁き声がこだまする。あのお店のマンゴープリンがおいしいだとか、今回の役者さんたちは以前観た回とほぼ同じだとか、この劇場はお手洗いの数が少ないだとか、さっき入ったカフェがおしゃれだったとか。

息が多めの話し声に耳を傾けながら、私はここ最近の恋人との甘やかな記憶に身を浸していた。大した思い出ではない。特に目立った出来事でもない。ただ、彼の頭を撫でながら過ごした気だるい昼下がりのことや、どこにでもあるファミレスで何を頼むか二人して迷っていたことや、クーラーの効いた彼の部屋を出た瞬間の熱気への驚きや。彼と二人で一つのパソコンを覗き込んでいたときに彼のふわふわした髪が私のおでこに当たっていたその感触や、私の胸に額を寄せて甘えてくる彼から立ち上る甘い香り、暑い暑いと言いながらも繋いだ手を離さないでいた真昼間の下北沢、ゲリラ豪雨の中を小走りで帰った夕方、日が沈んでからすっかり暗くなってしまうまでずっと二人で港を眺めていたこと、打ち上げ花火を眺めながら私を後ろから抱きしめていた彼の体温、下らない話をしながらぶらぶら回った上野の美術館、私が抱きつくといつも意識的にか無意識にか私の頭を撫でる彼の大きな掌とほっそりした指。

劇場がだんだんと暗くなり始めて、しんと静まり返る。響き渡る役者さんの声。オークションハンマーの音。一息ついた、と、思った瞬間の、パイプオルガンの旋律。不気味さと怪しさ、しかしよく耳を澄ませるとその奥に潜むもの哀しさ。

オペラ座の怪人は、最後に小説を読んだのもミュージカルを観たのも何年も前だったので、すっかり大筋を忘れていた。かつての私はファントムに心酔していたような気がするのだけど、なんだか今日は少し彼に批判的な気持ちになってしまった。若い女の子の寂しさに漬け込むなんて! とは言いつつ、彼の苦しみや孤独や諦めやそれでも諦めきれない愛と人肌への渇望を思うと、胸が締め付けられずにはいられない。ストーリーや音楽、舞台上の素晴らしい大道具・小道具や歌、演技には大満足。

一番印象的なのは、醜い顔を見られたことへの苦しみと恐怖と絶望に慟哭するファントムの姿。それから、クリスティーヌからの口づけに驚き、戸惑い、置き場がわからず宙を彷徨う彼の両手。やっぱり最後は悲しすぎた。

だから、カーテンコールでファントム役の俳優さんが元気いっぱいの笑顔で登場したのには安心した。ほろ苦さを家まで持ち帰るのも悪くはないけれど、今日はなんだか、笑顔で帰りたかった。

 

作品の世界から抜け出すのが惜しくて、書店に寄ってガストン・ルルーの原作小説を買った。本屋さん特有ののすこし硬い香りは好きなのだけれど、今日だけは恋人の匂いと笑顔のほうが恋しくて仕方がなかった。

額縁

思い返してみれば、額縁に入った思い出というものが数えきれないほどある。そのどれも手ずから額装した覚えはないのだけれど、何度も何度も反芻して、手にとってまじまじと見つめたり愛しんだりしているうちに、時の流れも手伝って額の中に納められていた。

ディテールを細かく鑑賞するには直接手にとる方が良いのだけれど、額の中に入った思い出は、生身で味わうよりも一層キラキラと輝いているようで、それもまた良い。バラの棘のように気付かぬうちに刺されている思い出の痛みを気にすることなく味わうことができるのも、良い。

思うに、額装の一助となっているのが写真だと思う。写真に収められた痛いまでの鮮烈さを、毎度毎度痛みに顔をしかめながらも手元で弄んでいるうちに、いつしか額の中に入れられるようになっているのではなかろうか。

それから、思い出を言葉に置き換えていく作業もまた、実は額装の作業の一つなのかもしれないと思い当たった。記憶の抽斗を探り、それとぴったり合う言葉をまた手探りで見つけ出し、そうこうしているうちに、すっかり失くしていたはずの記憶までもがひょっこり顔を出すことが、ままある。言葉にはなり得ない思い出の断片までもが、たくさん。たくさん。元々の姿とは似ても似つかぬほどに細かくなったシーグラスがあんなにも美しいように、そういう記憶の欠片たちも、元々の事実としての出来事とは比べ物にならないくらい綺麗なのだ。

辛酸の角が削れて、穏やかな深みと爽やかさと甘みとのハーモニーに程よいスパイスが混ざったような感じ。美味しいお酒や少し大人な香水のような感じ。

盛夏の熱海の目に染みるほどの青や、初春の江ノ島の柔らかな陽光や、初めて飲むウイスキーのグラスのまろやかな反射や、刺すような寒さをかえって心地よくさせる日本酒の酔いや、渋谷の夜景の子供の宝石箱をひっくり返したかのような騒々しさや、東京タワーの深いオレンジ。

もっともっと増やしたい。

廊下に額縁が溢れかえっているような人生に、したいなと思う。

2024.04〜06について

気づいたら2024年が半分終わり、三ヶ月分も更新を延滞していた。驚きである。しかしせっかく気づいたので、今さらながら四〜六月を振り返る。これに何か意味があるんだろうかという気持ちにならないでもないが、死の瀬戸際にでも読み返せば走馬灯の原稿くらいにはなるだろう。

 

四月に観た映画は、オッペンハイマー、アーガイル、パストライブスの三本だけ。オッペンハイマーは劇場で鑑賞できてよかった。あの音圧を、視界いっぱいのスクリーンを、描き出される罪を、全身で味わうことができて本当によかった。アーガイルは家で観てもよかったかもしれない。お酒でも入れてやいやい言いながら観ても楽しそう。パストライブスは、大切にしたい人と一緒に観られたのがうれしかった。

藝大の大吉原展と、田代ゆかりさんという作家さんの個展にも足を運んだ。絵を近くで見たり遠くで見たりするのが好き。細かい筆の運びのひとつひとつや、刷られた色の重なりが、とうとうひとつの世界を作り出すという事実に、毎度新鮮にびっくりする。その驚きが、心地よい。

読んだ本は、三体 Ⅰ 、十年後の恋、たったひとつの冴えたやり方。ジェイムス・ティプトリー・ジュニアのことをもっと知りたい。もっと読みたい。特有の性に対する眼差しが好きだった。それから、私は宇宙や地球や人類に対して前向きになれるSFが好きなんだとも気づいた。ジェイムズ・P・ホーガン作品もそうだ。人類のことはあまり好きではないタチだが、こういう作品を読んだ後だけは、まあ肯定してやっても良かろうという気持ちになれて、心が楽になる。なんという同族嫌悪。

新学期はどうしても忙しくて、あまりたくさんのものには触れられないのが残念。休めるようになったら、穏やかに本を読んだりお茶を飲んだり映画を観たり旅に出かけたり、したいと思う。

三寒四温と言うけれど、本当にその通りで、真冬と真夏の反復横跳びをしている気分だった。酔いに任せて夜闇に身を投げ出せば、どこもかしこも薄ぼんやりとした桜でいっぱいである。あまり

 

五月に読了したのは、森下典子さんのエッセー「茶の湯の冒険」だけ。映画一本にどれだけの人の熱量が込められているか、改めて気がついて目の奥がじんとなった。

五月に楽しかったのは、東京タワーに登ったこと。間近に見るとこんなにも暖かい色をしているというのは初めて知る事実だった。東京タワーから見る東京は本当に光の海でしかなくて、それはとても美しいけれど、東京で最も美しい光の塔である東京タワー自身を見ることができない点だけはやや不服だ。……などと考えていたが、トップデッキからメインデッキに降りたところで、目の前の麻布台ヒルズによく見覚えのある赤い塔が見えた。再開発というやつはあまり好きではなかったが、これには少し嬉しくなった。四月に訪ねた田代さんの個展で見た作品と同じ画角の景色を見つけて、同行者と顔を見合わせた。色々なところを同じ人と訪れる喜びは、こういう瞬間にある。皮膚を隔てて異なる脳みそに異なる自我や人格をそれぞれ持ち合わせている他人同士が同じ記憶を共有しているなんて、不思議で幸福なことだ。タワーの足元にビアガーデンならぬハイボールガーデンが設けられていたので、夜になるとまだやや肌寒い期節ではあったが、トリスのハイボールにポテト、唐揚げ、枝豆で乾杯した。ほろ酔いの中での別れはいつも寂しいものだ。電車の扉が閉まる最後の瞬間まで、目を合わせていたくなる。

 

六月には、三体 Ⅱ 、ジュースキントの香水、ブラームスはお好き、君の名前で僕を呼んで、旅のつばくろ、2020年の恋人たちの6冊を読了。「香水」が特に好きだった。面白すぎて、恍惚としていた。恍惚に任せて月光を言祝ぎ、皮膚を撫ぜる夜風に快楽を覚え、踊りながら帰宅した。「ブラームスはお好き」を読んだ後には、寂しすぎて苦しみすら覚えた。しかし同時に、そのほろ苦さが洒落ているように見えて、憧れを抱いてしまったことも事実である。「君の名前で僕を呼んで」は以前実写映画化された作品を場末の映画館で観て以来、ずっと原作が気になっていたので、やっと読めた、という気持ちだった。その青さと苦さには何度か手が止まった程だったが、それらの感覚が美しい北イタリアの海や月や草や建物や陽光を一層際立てており、若い恋と欲の熱さに胸を焦がした。そこから一転、日本のコロナ禍の大人たちの恋を描いた「2020年の恋人たち」も、これはこれで苦しいところのある作品だった。それが作品の全てという訳ではなかったけれど、女として生きることの痛みをはっきりと描き出していて、目を逸らしたくなってしまった。

 

本当に、世の中は目を逸らしたくなるもので溢れかえっている。人が人を殺すだの、汚職や黒い金の流れだの、誤った知識による正義の暴走、世間体、パッケージングされた”自分らしさ”、資本主義に乗せられた”幸せ”、冷笑、否定、否定を否定する寛容、寛容を否定する正しさ、……。カフェラテを飲んで少し火照った体を夕暮れの散歩で涼風に浸し、揺れる夏草にくすぐったそうな犬を眺め、空の色が変わっていくのをぼんやりと見つめる。それだけで良いのに。それだけが良いのに。

哀れなるものたちを観た

今さらながらまとめてみた

(ネタバレあり)



 

 

 

 

 


あらすじは次のようなものだ。

19世紀末〜20世紀初頭を彷彿とさせるイギリスで、身投げして自殺した妊婦の腹から取り出した胎児の脳を妊婦に移植し、彼女をベラと名付けその知的能力の向上・進歩を観察する話。移植した外科医は彼女からGodと呼ばれ、父かのように慕われ、ある種創造主でもあることが示唆される。さらに、この世界においてはキリスト教的な価値観が「良識」であるとも明示される。ああ、聖書の話なんだな、と思う。

ちなみに、Godは幼い頃から、同じく外科医の父によって人体実験の素材とされてきたために、感情がどこか欠落している。

家政婦とGod、そしてGodの作り出した部屋だけが全世界であったベラは、Godの助手である外科医見習いの青年、ハリーと出会い、触れ、学びの時間を得る中で、さらに広い世界を見る自由が欲しいと望む。さらに性の目覚めを迎え、人前でも構わず自慰に耽る。彼女は、彼女に恋心を寄せつつもその気持ちをひた隠す青年ではなく、火遊びを唆す二枚目男(まるで禁断の果実を食べるよう唆す蛇のようである)と駆け落ちする。Godはそれを許し、身支度を手伝い、挙句いざというときのために予備の金を持たせる。

ベラの見る世界は、二枚目男の手によって処女を捨てることで初めて色彩を得る。

ベラは彼と、パステルカラーに満ちた地であるリスボンで、牡蠣やエッグタルトといった初めて見る食べ物を貪り、性欲を満たすことに熱中し、音楽に身を任せ、そして暴力というものを目の当たりにする。まだ精神的に未熟なベラの奔放さは、多くの女と関係を持ってきた二枚目男にとって、初め新鮮であり「俺が彼女を成長させてやる」という気持ちにさせられるものであったが、次第に疲れと不安を覚え始める。きっとこの、愛人を他の異性に取られるかもしれないという不安は、かつて彼が気まぐれに手を出した女たちが常に感じていたもので、彼は見て見ぬ振りをしてきたものであるし、「これだから女は……」と軽蔑し忌み嫌ってきたであろうものだから、彼女を責めることはできない。そうすることは、過去の自分を否定することになってしまうから。自分のパートナーが世間からずれているということを許せない二枚目男は、音楽に身を任せて貴重なダンスを踊るベラを、必死に御そうとする。それがまた奇妙で、気がつけば彼がベラに御されているようにも見えて、つい笑ってしまう。嘲笑にも似た笑いである。可哀想なダンカン。

ベラがどこかへ行ってしまうことを恐れた彼は、冒険を求める彼女を満足させると同時に、自分の不安を抑えるために、逃れる場所のない船に乗ってギリシアへ旅しようと考える。船から見えるのは一面の青。悲しみの色。船上で出会ったのは哲学者の老婆と現実主義者の黒人男性。ベラは彼らと出会い自ら成長しようとし、そして実際に成長して知的能力が2枚目男を上回る。ベラの未熟さこそを魅力的に感じていた彼は、もはや彼女に女としての魅力を感じることはできない。ギャンブルと金にひたすら逃げる。

ベラは現実主義者に連れられてアレクサンドリアで一度下船し、貧困や病に喘ぐ弱者を目の当たりにする。ただし彼らを救うための道は閉ざされている。下界と天界とは繋ぐ階段が崩れているのがどこか象徴的だ。彼らが苦しんでいる一方で自分は羽毛のベッドで寝ていることにベラは苦悩し、走り船に戻ったベラは、二枚目男の金をかき集め、乗員に託し、弱者に渡そうとする。まるで自分の金かのように、である。親の金で生きながらボランティアに励んでは賃労働者が社会貢献活動に従事しないことを批判する金持ち大学生のようである。

二枚目男が彼女と共にいる中で得たものは、すっからかんの銀行口座と傷ついた自尊心、そしてそれらによって壊れた精神だけである。一文無しになり真冬のパリで降ろされた2人は路頭に迷い、二枚目男は怒りと混乱でただ立ち尽くすが、ベラは「ちょうどセックスとお金が必要だから」と娼館に足を踏み入れる。そしてフランス男と寝た後、30分で得た15フランでワッフルを買い、「知らない男と寝たことであなたのセックスが世界一だと分かって良かった」と二枚目男にそれを手渡す。彼は「売女は女がやることの中で最も邪悪だ」と怒り狂うが、ベラは「なぜ? あなたは陳腐な言葉であんなにわたしを称賛したのに、わたしが一度知らない男と寝ただけで怒り狂うの?」とどこ吹く風。こうして2人は別れるのである。

皮肉なことに、ベラの心を二枚目男から奪ったのは、彼女が娼館で出会った娼婦の黒人女である。肉体労働の合間に互いを慰め合いながら、ある日黒人女はベラに「このお腹の痕、帝王切開? 子供はどこにいるの?」と尋ねるのである。そこでベラは、自身の秘密の一端に気がつくわけだ。

Godは腹部の腫瘍、癌が原因で衰弱し、日に日に死へと近づく。Godとハリーはベラに「危篤、すぐ帰れ」と手紙を送り、ハリーはベラを迎えに行く。様々な経験と、光景と、知識と、感情と、倫理観と、、つまりありとあらゆる人間らしさを携えて、ロンドンへと戻ったベラは、初めて自身の出生の秘密を知り、そして同時に、父性と真の愛と安心とに気がつく。冒険は終わったのだ。……と思いきや、そうではない。

ハリーとベラの結婚式に、ベラの前世ーー脳みその母、あるいは肉体の元の持ち主ーーの夫が乗り込んでくるのだ。ベラは彼の元へ戻ることを決意する。そしてそこで、暴力的に女を支配しようとする男を目の当たりにし、彼を撃って父のもとに戻ってくる。ベラは元夫を連れて我が家に戻り、彼を「草食系男子」にする特別な手術を執り行う。Godは死ぬが、ベラとハリー、娼館で出会った彼女と家政婦とは、それから末長く幸せに過ごすようである……。

 


まるで「放蕩娘のたとえ」だ。そして、どこまでもキリスト教的価値観を否定したいストーリーテラーにとって、父のもとから離れられないベラも、ハリーも、家政婦も、そのほかGodの世界にとどまる誰も彼も、POOR THINGSなのだろう。神が創った世界の外を知った後も、その神すら死んだ後も、神の創った世界だけに閉じこもり、格差はそのままに、黒人と友人になったことでどこか倒錯した優越と幸福度に浸る人々、ニーチェ後も西洋的価値観の押し付けをやめなかった社会それ自体を、本作は批判しているのではなかろうか。なお、エンドロールに性器のメタファーが散りばめられていたのも印象的だったが、本稿はこのあたりで筆を置こうと思う。