匿名

日記

お盆休みの飛行機旅

飛行機に乗るならちいちゃいカバンを持っていくのがセオリーだと思っている。ので、気に入りの白いちいちゃいカバンと、どでかい紙袋いっぱいのお土産とを持っていく(紙袋は到着までに二度破れた)。それから、服についたでっかいポケットの中に様々な小物をバラバラと。

慣れた顔つきで保安検査場を抜け、これまた慣れた手つきでクレジットカードを差し出し入ったラウンジは白っぽく明るくて、むしろ窓際に近づくほど逆光で暗い。バジルチキンの包み焼きピザを食べた。よく晴れた夏の朝だ。

搭乗口では小さい子供たちがぱたぱたと走り回っている。おばあちゃんちに遊びに行くんだろうか。お盆の空港は混み合っている。むかし自分が小さい頃には飛行機のチケットは紙で出てきた。あの紙質が好きだったことを、ふと思い出す。

飛行機が動き出すと、あの香ばしいような匂い。エンジンが動き出し、振動。CAさんが忙しなく歩き回っている。どんな異常も見逃さまいという丁寧な視線と、それでいて物腰の柔らかい口調。

羽田から飛ぶと、必ず海が見えるのが好きだ。夏の陽射しを照り返す海の眩しさに目を細めながら、サザンオールスターズの曲を流した。船の足跡がかたつむりの這い跡のように続いていた。

ドリンクサービスが始まると、私はソワソワする。オニオンスープかリンゴジュースかで迷いに迷っているのである。リンゴジュースは新幹線に乗るときいつも買うので、せっかくの飛行機旅ならオニオンスープにしようか、と心に決めていたはずなのに、やってきたCAさんに向かって口をついて出たのは「リンゴジュースをお願いします」であった。2択を選ぼうとするといつもこうなる。それはそうと、リンゴジュースは大変美味であった。

本日の旅のお供に選ばれた1冊は、旅にまつわるエッセイのアンソロジーである。どれも大変にファニーで笑えるものばかりなのだけれど、特に寺田寅彦による『電車の混雑について』なる一編は、声を抑えるのが大変なほどに面白かった。物理学者の手にかかれば、満員電車ですらも大変に数理科学的手法で分析できるのだなあ。数学が苦手な私にとってはもう、凄いを通り越して面白いに至るのである。数理科学的手法に長けている人は、変数の設定が抜群に上手いのだ。

座席目の前のモニターに目をやると、ここは既に愛知上空。飛行機旅は半分を過ぎたところだ。サザンのプレイリストが終わり、研ナオコが歌う「夏をあきらめて」が流れてきた。上空8500mは−25℃の極寒らしい。

隣席には年配のご夫婦と思しき男女が座っていて、窓の外を眺めたり本を読んだらコーヒーを飲んだりとそれぞれ好き好きに動きながら、でも時々は2人して窓の外を指差したり顔を見合わせて笑ったりしている。そんな様子がなんだか羨ましい。まるでデビュー直後の松田聖子が歌う夏ソングみたいな甘やかさと爽やかさが漂っている。私も、幾つになってもそんなふうでありたいとつくづく思わされる。そんな私は中森明菜の北ウイングみたいな気持ちで飛行機に乗っている(出発したのは南ウイングからだし、いまは真夏だし、霧の街に向かうわけでもないし、一度諦めた恋というわけでもないのだけれど)。

もうそろそろ着陸らしい。飛行機が大きく旋回する。和歌山あたりの山の上だ。半年ほど前に白浜を訪れたのを、懐かしく思い出した。

到着客は、みな足早に「動く歩道」をずんずん進んでいく。私も御多分に洩れず、せかせか歩く。道の途中に立って我々を監視する警備員さんの関西アクセントが、耳に心地よい。

預け手荷物まで回収すると、すっかり安心である。安心してみると、朝早くに起きて綺麗に化粧をし新しい服をおろして普段はつけないカラコンまでつけてお土産を散々買い込んで好いた人の家に向かうわたしが、なんともいじらしく、可愛く思えてきたのだった。

2026.1〜4月

2026年が、4ヶ月も経過した。驚くべき速さである。
こんなに月記を溜めるはずではなかったのに。

 

2026年1月は、卒業論文とアルバイトに追われていた。正直なところ、詳しい記憶はない。
ただ、フォース・ウィング2が面白く、ズートピア2に感動し、岩波新書のシオニズム(鶴見太郎・著)に考えさせられ、家の近くに美味しいピザ屋さんを発見したのが、収穫であった。

 

2月には卒論からの解放を喜ぶべく「アルジャーノンに花束を」「グレタ・ニンプ」を一気読みした。そしてずっと気になっていたハンバーガーショップで美味しいハンバーガーを食べ、ずっと気になっていたイタリアンで美味しいピザとパスタを食べ、春休みの旅行の計画を立てたのだった。それ以外の時間は、基本的にアルバイトをしていた。それと、資格の取得。労働者階級の哀しみである。

 

3月には京都で表千家のお家元のところに滞在し、1週間みっちりお茶のお稽古に励んだ。本当に、本当に豊かな時間であった。先生方や玄関さんの点てるお茶はいつだってさらっと池が残り、ちょうどよく美味しい熱さで、そして何よりお菓子をいただいてちょうど気持ちよくなった瞬間に運ばれてくるのである。魔法かと思った。妙顕寺の宿坊は内外をガラス戸で区切っているだけなので底冷えが激しかったものの、その分お風呂やお布団が気持ちよかった。毎朝着物を着る経験のおかげで、お太鼓を結ぶ技術はかなり向上した。拝見した掛け物の禅語の一つ一つに心動かされた。一番好きだったのは「時時勤払拭」という言葉であった。
思うに、茶室の中は一つの確立した「世界」なのだ。俗世から離れるには、ふつう絆を断ち切って長いこと修行せねばならないわけだけれども、ひとたび躙口を通って茶室に身を置くと、一瞬でその境地に連れ去られるような、そんな気分になる。そのように設計されているのだ。「市中の山居」という言葉や、「大隠は朝市に隠る」という漢詩の一節があるけれども、茶室の中ではそれを心底理解できる。もちろん未だ悟りを開くには程遠い修行の身であることは前提なのだが。。
この短期講習会の後には、大阪と和歌山を旅した。恋人のお母様のそれはそれは美味しくて温かい手料理に癒され、暖かい励ましの言葉に元気をもらって、たくさんの卒業祝いもいただいてしまって、新社会人を迎える心の準備は万全に整った。たこ焼きはソースだけでなく青ネギとポン酢で食べても美味しいという学びも得た。
和歌山は初上陸だったのだけれども、まず驚いたのはその遠さである。お目当ての白浜までは、大阪から車で3時間という脅威の道のり。しかし、長い時間かけて足を運んで本当によかった。真っ白な砂浜にエメラルドの渚にモスグリーンの山間、満開の菜の花と桃の花が青空によく映えて、宿の露天風呂から眺めた夕暮れ空はラベンダーに染まっていた。温泉の硫黄のにおいと潮のにおいにまた癒される。満天の星の下で波音に耳を傾けながらお湯に浸かっていると、自分がこのまま遠く太平洋に流され、漂流する椰子の実みたいにどこかへ連れ去られていきそうな気がする。目を閉じれば、きっと南国。お食事は朝も夜もこれ以上なく美味しくて、ご当地の梅酒は顔がとろけてしまうほどに甘く豊かな味わい。恋人の幼い頃の思い出の地ということもあり、感慨深い旅となった。きっとまたすぐに、ここに来ることになるだろう。

卒業旅行も3月であった。チューリップが満開のハウステンボスに菜の花が満開の平和公園、ミルクセーキやトルコライスやカステラ、有田焼も波佐見焼も唐津焼も薩摩焼も琉球焼も、美しいものと美味しいものとに恵まれた日々を過ごした。

卒業式には恋人と母が来て、花束と私の好きな店のマカロンをくれた。たった4年のキャンパスライフ(しかも卒業時のキャンパスで過ごしたのはそのうちさらにたったの2年弱)ではあったものの、なんだかんだたくさんの出来事が思い出される。春の雨の日に傘をさすのを億劫がって濡れながら駅まで向かったことや、教室に向かう曲がり角でちょうどプレイリストから流れ出したジュリーの歌声だとか、秋に2階の廊下を歩いていてふと目をやった先に銀杏の黄色が飛び込んできたこと、そういうなんてことないわたしの日々が、たくさん眠っている。
ここで大学生活を送ることができて、心底良かったと、そう思えた。
これまでの人生で過ごした「学校生活」の中で、一番幸せな時間だった。

それと、とっても美味しい海老天屋さんと出会えたのも3月だった。

 

そんなこんなで迎えた4月。ドキドキの新社会人生活は一瞬で過ぎ去っていく。毎日が新鮮で、面白く、勉強につぐ勉強の嵐だ。しかし、楽しい。きっとこれからしんどさに襲われる日も来るのかもしれないが、でも今は、心底楽しい。
休日にはネモフィラ畑を楽しんだりディズニー映画「私がビーバーになる時」に泣いたり笑ったり、親知らずを抜いたり資格をとったりと大満足の1ヶ月間であった。

せっかく仕事を始めたのでお仕事小説でも、と思い、真山仁の「ハゲタカ」を読み始めたのだけれど、これがまた大層面白い。格好良いし、時折挟まれる古風な街や料亭の様子がまた美しい。そしてやり手のビジネスマンの言葉の応酬にはものすごく憧れてしまう。こんな仕事をする日はきっと来ないのだろうけれども、夢は膨らんでしまう。某ゴールドマンに行った高校からの同期はこんな世界に身を置いているんだろうか。今度の同窓会で聞いてみたいと思った。

それから、樋口一葉の「にごりえ」。人の業と哀しみと、それでも、いやそれだから際立つ美しさと色気とが、文庫にしてたった40ページほどの紙面から溢れ出す。
タイトルの由来は、伊勢集に収められた次の和歌だという。
 にごりえの すまむことこそ かたからめ いかでほのかに 影をだに見む
 すむことの かたかるべきに 濁江の こひぢにかげも ぬれぬべらなり
諦めても諦めきれない、やるせない恋をするつもりはさらさらないけれども、時折そんな物語に胸を焦がすのもまた、人生ではなかろうか。

卒業旅行のこと

卒業旅行へ向かう飛行機の中で、ユーミンの卒業写真だの、斉藤由貴の卒業だの、聖子ちゃんの赤いスイートピーだのを聴いていた。

聖子ちゃんの曲はもう何年もわたしの中でブームが続いている。

曲を聴くと、昔その曲をリピートしていた頃の気持ちが蘇ることがある。

恋人と交際し始めてから2年が経った今、思いますのは、付き合う前のデートに向かうときの緊張だとか、大学から彼の家に帰るときの高揚、お気に入りのワンピースを褒めてもらったときの嬉しさ、初めて2人で花火を見たときの感動、初めて彼のご実家へ伺ったときの喜び、初めて喧嘩したときの怒りまで。

初恋や初めての彼というわけでもないのに、初対面のときには柄にもなく緊張したのが懐かしい。そのときはこんなに長く関係が続くと思っていなかったけれど、もしかしたらあの緊張は、この2年間を予兆していたのかもしれない。

大学生活の丸半分を恋人と過ごしたことになる。2年間、いろいろなことがあった。学生時代のさまざまな思い出がこの恋と結びついているから、もしも別れが訪れたら(わたしはそんな結末を選ばないから別れに訪れてもらうことはありえないのだけども)、苦しいだろうなあと思う。一方で、きっとその苦しさは仄かに甘いのだろうと思うから、味見してみたくなって失恋ソングを聴いてみたりもする。人間の強欲である。

 

初日。福岡空港からハウステンボスを目指すバスの車窓からは、葛に覆われていると思しき山々が見えた。樹種や木々の生え方を見るに、かつては林業に携わる人の手が入っていたのだろうが、今では見るも無惨な姿である。こんなことが日本各地で起こっているのだろう。花粉症患者には気の毒なことだが、花粉症問題はなかなか解決しなそうである。

3月下旬のハウステンボスはチューリップがちょうど見頃。揚々と空を目がけて咲き誇る姿はなかなかに立派だ。チューリップというと、幼稚園児の描くような形状を想像してしまいがちだが、生で見ると当然ながらもっと複雑な形をしていて、色の着き方も繊細、背の高さも色ごとに様々で、これはかつてバブルを起こしたのも納得という美しさであった。

平日ながら春休みということもあってか家族連れやカップルが目に入る。幸せそうな人々を見ていると、いつか自分も、と夢見る気持ちがむくむくと育っていくのがわかる。

 

2日目午前。端島へ上陸。島の形状から軍艦島と呼ばれることもあるが、島民たちは羽島と呼んでいたという。恥ずかしながら、「軍艦島」に対してなんとなく悲しい・寂しいイメージを抱いていたのだが、ツアーガイドの方の説明でそれは覆された。現在の価値にして初任給で50万円を稼げた端島は、特に原爆投下直後の壊滅的な長崎において夢の島であったそうだ。4日目に原爆資料館を訪れたことで、その意味が一層よくわかった。白黒テレビの普及率は驚異の100%、神宮球場と端島だけにナイター設備が整っていた時代もあったという。重労働がわかっていたとしても誰もが憧れたこの島では、残念ながらというべきか、コネやツテがなければ働けなかったそうである。

8時間3交代制で24時間稼働し続けたこの島は、まさに不夜城。スーパーだけでなくパチンコ屋までもが24時間営業だったと聞いたときには、驚きどころか笑いが込み上げた。

また、土地が狭いからこそ特に子供が健康に過ごせるようにという工夫が目についた。屋上を公園にしたり保育園にしたり、学校の窓を大きくとって日光浴ができるようにしたり、屋上菜園を作って少しでも緑に触れさせたり、、という話は、まるで現代の話のようだが、これらのアイディアが1960年代には見られたのだから驚きである。

 

午後、グラバー園へ。とにかく広く、どこも季節の花で彩られている。瀟洒な洋館をつなぐ敷石にはハート型のものが紛れ込んでいて、どこまでもデート向きの空間であった。とはいえ展示も見応えがあり、明治日本の近代化の歴史を細かく辿ることができる。鹿児島で生まれて横須賀の近くで育った身としては、大変興味深く、また初めて訪れたのにどこか懐かしく感じられた。

 

3日目、まずは腹ごしらえ、と中華街の江山楼で东坝肉をいただいた。この料理を口にするのは小学校の給食以来で、なかなか食べる機会もなかったので大変楽しみにしていたのだった。柔らかく口の中で解ける角煮とほんのり甘い中華まんの生地が大変に合う。懐かしの味に浸ったのち、ぶらぶらと歩き始めた。横浜の中華街ほど大規模ではないが、3連休の中日にしては人通りが多すぎず、大変居心地の良い中華街であった。

眼鏡橋は「がっかり名所」などと揶揄されることもあるようだが、そんなことはないと断言できる美しさ。昔ながらの街並みが残る川沿いの道も、歩くだけで心地よく、新芽が萌える柳や道端の菜花などに春の訪れを感じるのも楽しい。

眼鏡橋の付け根に位置するカステラ屋でいただいたカステラも玉茶も大変美味しく、満足である。

 

午後、原爆資料館へ。広島の方は足を運んだことがあったのだが、こちらは初めて。比べるものでもないのだろうが、広島のよりも直接的な展示が多いように感じた。子を亡くした親や親が目の前で炭と化した子、兄弟姉妹を失った子供たち、彼らの手記を読むと思わず目頭が熱くなった。昨今のアメリカの横暴や暴力の応酬を思い出し、一層暗澹たる気持ちに襲われる。聞こえてくる言葉や訛りから推察するに、アメリカ人、中国人、韓国人といった海外観光客も少なくないようである。彼らが何を感じているのか、自分が今何を思っているのか、共に語り合いたい気持ちをぐっと抑えて外へ。

 

4日目、波佐見と有田をぶらぶら。バイパスを走っていると、何本もの煙突がにゅっと突き出ているのが見える。旧道沿いは風情あふれる街並みで、次は歩きで巡りたいと思った。焼き物の歴史はほとんど人類の文明の歴史だ。

というのは、5日目に吉野ヶ里遺跡を訪れた際にも感じた。

親切なガイドのおじさまによれば、近隣の住宅街を発掘調査できていないため、吉野ヶ里遺跡がその時代において特異な存在だったのか、はたまたその時代のデフォルトだったのかがわからないのだという。考古学の理系化が求められている、という話もあった。そういう学際チックな話を聞くと、SFファンとしては胸が躍ってしまう。アカデミアの皆様におかれましては、ぜひ頑張っていただきたい。

 

そんなこんなで4泊5日の九州旅行が幕を閉じた。帰り際には空港で大きなアジフライも食べることができ、大満足の旅となったのだった。

3月のある日の夕のこと

彼氏の実家から1人で東京に戻るときにはいつも泣いてしまう。

寂しいのもあるけど、でも多分それだけが理由じゃないと思う。

 

彼氏と数日間寝食を共にしていると、彼がいかにわたしを気遣ってくれているか、どれだけわたしを大切にしてくれているか、どれほどわたしに惚れてくれているかに、心底気付かされる。それは単に荷物を持ってくれるとか歩みを合わせてくれるとかだけではなくて、例えばそんな優しさを戯けて隠して、わたしが申し訳なさを感じないようにしてくれるとか。

彼のそういうユーモアのセンスが大好きだし、尊敬している。

 

わたしも彼も天邪鬼だから、どちらかが寂しがっているときには必ずもう片方は平気そうに振る舞ってしまうけど、内心では相手も別れを寂しがっていることに気づいているから、一人になった瞬間感情が一気にこみ上げてしまうのかもしれない。

今ごろ彼も寂しがっていないかな、と思うと、なぜだかわたしの方が、また寂しくなってくる。

彼は今、なんてことない顔でぐーぐー眠っていてくれていたら良いなと思う。

しばらくの会えない日々も、わたしのことなんて忘れて、好きなときに寝て好きなときに起きて、好きなものを食べて下らないことで笑って、穏やかに幸せに健やかに楽しく過ごしていてほしい。

あるいはなんなら、一人は気楽でありがたいな、一人になれてせいせいした、なんて思っていたって良いくらいだ。

 

楽しい数日間はあっという間で、これから先のなんてことない日常はとてつもない長さに思える。この後しばらくの日々に対する憂鬱や、面倒臭さや不安がわたしを襲うから、余計に涙が止まらなくなる。

この先うまくやっていけるのか、失敗しないだろうか、しんどくなることもあるだろうな、嫌な目に遭ったらどうしよう、、。そして何より、彼とこの先もずっと一緒にいられるかな、と。

そんな心配は要らないくらい二人の仲は良いし、これからのことについても話し合えているし、不満があればすぐに伝えられる関係だけど、それでもなぜか不安になるのは、それだけ目の前の相手を失いたくないということなんだと思う。

3月という出会いと別れの時期に、これから待ち構える環境の大きな変化が、一層わたしを不安にさせる。

 

今、飛行機の窓の外は真っ暗で何も見えないけど、足元には八丈島やなんかが点在している地点らしい。朝が来たらここはものすごく綺麗なところなんだろう。

いつか来てみたいな、彼と一緒に。そのときまでどうか、二人がずっと健康で仲良しでいられますように。

 

ここ数日は連日晴れ続きで、彼とは色んなところをふらふらと歩きまわって、色んなものを見た。

目にも騒がしい御堂筋の飲食店街や、南海の車窓からチラリと覗く大阪湾、遠くに薄ら見える生駒山脈の稜線、真っ白な白良浜と紺碧の太平洋、春霞にぼやける水平線、柔らかな風に揺れる菜の花、満天の星空。

美味しいものもたくさん食べた。たこ焼き、お刺身、ベーグル、お味噌汁、梅酒、焼酎、鯨の竜田揚げ、さらし鯨なんてものまで。

色んなくだらないことを駄弁って、議論も交わしたし、将来のことをぼんやりと夢想しながら見つめ合ったりもして。

キャベツ太郎は食べると口がシパシパするから好きじゃない、いやぽたぽた焼こそ甘すぎてあんまりだ、みたいな話をしているときが一番楽しい。

何をしようか行き当たりばったりで決めては想定外のトラブルに見舞われたり、「あっちに行っておけばよかったな」なんて後悔するのだって、彼となら楽しくて幸せなのだ。

 

東京湾が見えてきた。もうほとんど自分の家に帰り着いたも同然だ。

どこまでも続く光の海を見ていると、彼と一緒に行った江ノ島やみなとみらい、熱海や丸の内での思い出が蘇ってくる。

どの思い出の中の彼も、優しくて面白くて、可愛くてかっこいい。

そんな素敵な彼だから、他の女の子から言い寄られることだって少なくないだろうけど、彼もわたしとおんなじように思っていてくれたら、それほど幸せなことは他にないだろう。

2025.12と、この1年について

恋人と一緒にいると、なんだか胸がいっぱいになって泣きそうになることがある。それは決して悪いことではなくて、むしろ嬉しいことだ。例えば今日がそうだった。

わたしのために他の予定をキャンセルして、帰省のため夜行バスにのるギリギリまでわたしとの時間をとってくれた。皇居のベンチでアプリの正座早見表を見ながら「あれはおうし座のアルデバラン。あれはぎょしゃ座のカペラ。」と指差し教えてくれた。それから近くにある美味しいお店を調べて連れて行ってくれたり、わたしが転ばないよう気を配ってくれたり、たくさん2人の写真を撮ってくれたり。わたしを見下ろして(彼の目線からわたしの頭頂部までの間には20cm以上の距離がある)「いつもよりも可愛く見える」と言ってわたしを照れさせたり、街角のジュエリーショップに飾られたネックレスとピアスのセットを遠目に見て「高級なカービィ?」(実際、そう見えた)と言ってわたしを笑わせたり、大きくて柔らかいてのひらでわたしの頭を丁寧に撫でたり。高架下をいつもより大きい声で話しながら通り過ぎるのも、幹線道路の歩道の隅でガードレールにもたれながらひそひそと言葉を交わすのも、この世のどんな瞬間よりも楽しい時間だった。

そんな喜びがたっぷり詰まった小時間の後で、人いきれのバスターミナルで彼がくれた今年最後のキスは、わたしの全身を余すところなく幸せで埋め尽くすのに十分すぎるくらいだった。

幸せすぎると人はそれが溢れて、涙になって出てきてしまうんじゃないかと、わたしは思っている。

夜ごはんを2人で食べているとき、何年か前に他界したわたしの父の話になった。もし父が生きていたら、恋人にどんなふうに接するんだろうか? でもきっと、彼のことを嫌いにはならないだろう。わたしが彼に投げかける安心し切った視線や、彼がわたしを見るあまりにも優しい目つきに、すぐに気づくだろうから。この間の夏休み、彼の実家で彼のご家族とお酒を飲んだとき、もしわたしが父と飲んでいたらこんな感じだったろうなと思った瞬間があった。父と飲むことはもう叶わないから、わたしはまた彼のご家族に会いに行く。

彼の好きなところを数え始めるとキリがないけれど、中でも特に好きなところの1つに、わたしの友人や家族を慮ってくれるということがある。わたしの帰りがあまり遅くなると家族に心配をかけるからと言ってやんわり帰宅を促されたり、わたしが「友達なんて1人もいない」のようなことを言うたびに「それはあなたのことを友達だと思っている周りのみんなに失礼だから、できれば言わないでほしいよ」と柔らかく窘めてくれたりする。特に後者についてはその通りで、実際ならわたしが友達との鮮やかで笑顔に満ちた思い出をすっかり忘れているだけなのだ。丸ごと思い出してしまえば、わたしは本当に素敵な人に囲まれた幸せな人間なんだなあと実感できるのである(これは誠に厄介な性質だと自分でも思う)。

1月から12月まで、丸ごと恋人と共に過ごした1年間はこの2025年が初めてだった。一瞬で過ぎ去ったようにも思えるが、よくよく思い出そうとしてみると色々なことがあったし、成長できた1年だったとも思う。ちょっとした喧嘩も初めてできたし、帰省ではない旅行も初めてすることができた。来年は忙しくなるだろうから、不安がないとは言えないが、でもきっと、大丈夫な2人だと思う。

それに何より、たくさん活字に触れられた1年だった。

1月から伊坂幸太郎『ペッパーズ・ゴースト』、一條次郎『チェレンコフの眠り』、文春文庫50周年記念の『幸田文随筆選』、『イラク水滸伝』。

2月には童門冬二の『上杉鷹山』、浅田次郎の『姫椿』。お堅い気分の1ヶ月間だったんだろうか。

3月には岩波ブックレットの『ナチスは「良いこと」もしたのか』、そして『源氏物語』を読み進め、堺旅行の前に『布武の果て』を読んで戦国時代の堺に思いを馳せた。

5月には『マノン・レスコー』、『ヒルビリー・エナジー』、『教養主義の没落』、『ポピュリズムとは何か』、『ホリー・ガーデン』

6月に入ってからは村上春樹の『街とその不確かな壁』、久々に読み返した江國香織の『東京タワー』、話題の『国宝』に平岩弓枝の『花ホテル』、『アッコちゃんの時代』。

7月には大好きな森瑤子の『夏の終り』をはじめとする短編集。そして何よりDUNEシリーズ。

8月にはNHKの100分de名著booksにハマり、カントの『純粋理性批判』やサルトルの『実存主義とは何か』を読んだ。そして高坂正堯の『国際政治』。有吉佐和子に特に熱中したようで、『悪女について』、『青い壺』、『針女』、『恍惚の人』。森見登美彦の『恋文の技術』、江國香織の『犬とハモニカ』、森瑤子の『デザートはあなた』、『あなたに電話』。甲子園を観るのにハマって漫画『タッチ』を全巻取り寄せ、一気読みもした。恋愛と戦争が気になっていた1ヶ月間だったのかもしれない。

9月には飛行機旅のお供として久々にジェイムズ・P・ホーガンの『星を継ぐものシリーズ』を読み進め、松田聖子と中森明菜についての新書や江國香織の『ひとりでカラカサさしてゆく』、永井紗耶子の『木挽町のあだ討ち』(これは今年読んだ小説の中ではトップレベルに気に入った1作だ)なども読んだ。

10月は有吉佐和子『仮縫』、江國香織『思いわずらうことなく愉しく生きよ』、平岩弓枝『花影の花』といった苦しい小説を立て続けに読んだ。そして源氏物語をついに読み終えた。先月読んだ永井紗耶子が気になって『女人入眼』も読み、それから日本人女性の歴史が気になって朝井まかての『眩』も、そして久々に浅田次郎の『月下の恋人』を読み返したりもした。

11月はなんといっても『プロジェクト・ヘイル・メアリー』!! 今年のベスト・バイを聞かれたら絶対にこれを答えるつもりだ。それと山内マリコの『小説ユーミン』も面白かった。

12月は海外小説にハマり、『私立探偵マニー・ムーン』、レベッカ・ヤロスの『バリエーション』と『フォース・ウィング』、アガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』。気が向いたから、漫画『宝石の国』を取り寄せて一気読みしたりもした。
『春にして君を離れ』を読んだときには、まず真っ先に「こうはなりたくない」と思ったのだが、この感想こそがややジョーンめいていて、少し気が滅入った。ロドリーとジョーンの関係を見ていると、自分の恋人との関係のことを思い出した。恋人が「あなたには本当に恩を感じている」と伝えてくれるとき、わたしは冗談めかして恩着せがましく「わたしが彼女で良かったね!」と言うのだけれど、内心では「むしろわたしの方があなたから何もかもをもらっているのに……」と思うのである。もしかしたら、ジョーンもはじめはそうだったのかもしれない。周囲からの感謝に、照れ隠しのつもりで冗談めかして「良かったわね、本当に、わたしの采配が正しかったのだわ(なんてね)」なんて考えていたら、いつしか(なんてね)の部分が薄れていってしまった、とか。そこまで考えて、少し恐ろしくなったので、わたしは考えるのをやめた。ひとまず彼にいつもの感謝を伝えねば、とそう思った。

趣味の本だけで60冊弱。その他にも卒論執筆のための先行研究や論文執筆の助けとなるようないろいろな本を読んだので、今年は大満足の読書イヤーだったといえる。有吉佐和子が5冊、江國香織が4冊、森瑤子とレベッカ・ヤロスが3冊、平岩弓枝と永井紗耶子2冊ずつと、女性作家多めの1年間だった。それから、歴史・時代小説とSFに魅了された1年でもあった。

今年観られた映画はそう多くなかったが、どれも傑作ばかりだったので嬉しい。3月に教皇選挙、ビーキーパー、ゼロ・グラビティ、もののけ姫のIMAX上映は圧巻だったし、大好きな落下の王国を4Kリバイバルで鑑賞できたのも何より嬉しかった。落下の王国は恋人とクリスマスに観たので、喜びはひとしおだ。

来年ももっともっと面白い1作、1冊にたくさん出会えるだろうか。そうであってほしいと願うばかりだ。

そういえばさっき恋人が、昨年の今頃にわたしの書いたこの記事を読んで、ちょっと泣いちゃった、と言っていた。

tanuki-hitori.hatenablog.jp

書いたときぶりに読み返したら、相変わらずわたしは彼のことが大好きなままだなと思ったけれど、一つだけ変わっていることがあると気づいた。それは、わたしが彼を絶対に失わないという自信をつけたことだ。彼が物理的に近くに居らずとも、他の誰かと一緒に居ようとも、なぜだか不思議と心配していない。彼がわたしを無尽蔵のように愛してくれるとわかったからかもしれない。この大きな気づきを得られたことが、今年一番の収穫だと思う。

これからも、どうぞよろしく。

2025.11について

わたしがインフルエンザで寝込んでいる1週間の間に、世界は一瞬でクリスマスカラーに染まっていた。学園祭も無事終わり、友人が友人でなくなりそうになっていることを除けば、穏やかな1ヶ月間だったと言えると思う。

今月は資格試験の勉強と労働とに忙殺され、感染症に襲われたこともあり、読めた本は『プロジェクト・ヘイル・メアリー』上下巻と『すべてのことはメッセージ 小説ユーミン』の2冊だけだった。けれどどちらもすごく面白くて、とても良い読書体験だった。だから結構、満足している。映画を観ることはできなかったけれど、お皿への絵付け体験もできたし、プラネタリウムを観ることもできたし、体験の面でもかなり盛り沢山な1ヶ月だった。卒業・就職も近いので、最近はなるべく人からの誘いを断らないようにしている。そのおかげもあって、初めて会う人やかなり久しぶりに会う人と遊ぶ機会に恵まれていて、なんとも嬉しいことだ。

 

満月のあくる夜、寒さに首を縮めながら恋人と2人で歩いた。彼の横顔を見上げると照れ臭そうに視線を返してくれて、もう付き合って2年近く経つのに今さらこんなにも気恥ずかしさを覚えるなんて、と驚いた。どちらからともなく「幸せだね」と呟いた。なんてことない1日だったのに、なぜだかとても幸せだった。「幸せ」なんていう陳腐な言葉が鼻につかないくらい、その一瞬は2人だけの世界を生きていた。

偶然前を通りかかった歯医者にツリーが飾られていて、もうクリスマスが近いことに気付かされた。今年のクリスマスの過ごし方を話し合い、昨年のクリスマスのことを思い出し、そういう2人の地層が感じられる瞬間に、嬉しくなった。

わたしは昔、自分の体の中で目と足が一番嫌いだった。目は細くて一重気味だったので、どんなに笑顔でもなんとなく愛想が悪いように思えた。足はむくむくと太いのが嫌だった。色気のない、野生っぽい太さだった。今はそのどちらをも、そこまでの感慨を持って眺めることがなくなっている。というか、むしろ好ましさを伴ってしげしげと鏡に映ったそれらを鑑賞することもある。こういう変化は多分、恋人のおかげだと思う。彼も彼で思うところはあるのだろうが、総じて「かわいい」と言ってくれる。その言葉に滲む気軽さと愛しさに、22年分のわたしが救われるのだ。可愛くあらねばという執着やそのための我慢を取り払った今、わたしはその種の価値観を離れ、自由に生きている。

プロジェクト・ヘイル・メアリーを読んだ

(ネタバレあり)

 

今ーーというかここ数年話題のSF、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読んだ。意を決して読み始めた。だってこれだけの人数のSFファンが大絶賛している作品なら、一度読み始めれば他のことには手がつけられなくなりそうだし、何より初読体験をそう簡単に失いたくなかった。初夜を恐れる処女みたいなものだ。

だが、時は満ちた。忙しなさの根源たるいくつかの(邪悪な)タスクは落ち着いた。それに、今読まなければきっとネタバレなしに読める機会は永遠に失われるだろう。来年公開らしい実写映画は、それもそれで気になるが、まずはやはり原作小説として読みたい。

そういうわけで買った上巻は、通勤電車の行き帰りを丸々費やした結果1日で読み終わった。そして居ても立ってもいられずに急いで下巻を買いに行き、それもまた1日で読み終わった。驚きである。もったいない……。もう一度記憶を失って読み返したいくらいだ。

読み終わった今、一番の感想は「しあわせ! しあわせ! しあわせ!」である。こんなに良い作品を、一切のネタバレなしで読み切ることができたなんて……。ほとんど奇跡に近い。実際、DUNEは映画が先だったので(もちろん映画を観た後での原作も面白いことに変わりはないが)、読んでいる間のキャラクター造形はかなり映画の影響を受けた。

しかし今回は、私の脳内がゼロから作り上げたキャラクターたちである。愛着の湧き方が違う。読み終わった後、涙が止まるのを待ち、感想を十二分に噛み締めてから映画の予告編を観た。本当にこの順序で良かったと思う。それはそうと、映画は本当によくできていそうなので、これを観に行くのも楽しみでならない。

この作品にはいくつも感嘆させられる箇所があったものの、その最大のものの一つとして、まずは主人公の設定が至る所に活きているという点を挙げたい。グレースは中学校の理科教師だった。これがロッキーとの邂逅と根気強い対話、様々な科学的知識の交換に大変に役立っている。そして何より、ラストシーンにもこの設定が活きている。

次に、良いSFに共通する(と勝手に私が思っているが、きっとSFファンはみんな納得してくれるであろう)特徴である「学際性」がある。本作では分子生物学から量子力学、宇宙工学、天文学、言語学、そのほか色々な科学的知識が登場する。それらのリアリティが絶妙なロマンを生み出すのだ。言語学まで登場する点は『星を継ぐもの』を彷彿とさせるが、本作ではブリティッシュジョークではなくアメリカンジョークが多用されているので、より読みやすい作品として仕上がっている気がする(いや、単に私がブリティッシュジョークよりもアメリカンジョークを好むだけかもしれないが)。

それから、『火星の人』にも共通する主人公のへこたれなさと柔軟さ(そして前述の通りジョークのセンス)が良かった。こういう小説を読むと、自然と明日も頑張ろうと思えるものである。この作品を読んで良かったと思うし、明日地球を救うわけでも何でもない私ですら、明日からの日々を真剣に過ごしたいなと思う。今すぐにグレースほどの明るさを身につけることはできないが、見習いたいと思う。

そして最後にーー忘れてはいけないーーロッキーの可愛さ!!!!「しあわせ!」の場面で、私は冗談抜きに悶絶してしまった。彼は本作唯一にして最大のヒロインである。読後に母から何が良かったのか聞かれ(母はネタバレをしてほしがる人だ)、ロッキーの形状や生態や彼がいかにいい奴なのかという説明をみっちり30分かけて行った結果、母もロッキーにメロメロになっていた。母は今読んでいる小説を読み終えたら次は本作を読んでくれるらしい。

多くの読者が本作を今世紀最も面白いSF小説の一つとして挙げているが、私もそれに賛同する。個人的には『三体』よりも好きだった(三体はあまりに物理学に寄りすぎていて、貧弱な私の脳みそでは処理しきれなかった……)。私は生物学が活躍するSFが好きなのだ。きっと22世紀でも語り継がれる小説になると思う。そんな素晴らしい作品を、ネタバレなしに、アメリカ本国での出版から4年のうちに読むことができて、本当に「しあわせ! しあわせ! しあわせ!」