匿名

日記

2024.03について

気がつけば桜のつぼみが綻び始めている。本格的な春の訪れである。新学期も始まることなので、気を引き締めていきたい。

三月に読了したのは伊集院静「羊の目」「志賀越えみち」、そして川端康成の「古都」のみである。後ろの二作品は、京都を描いたもので、これは三月の中旬ごろそちらの方へ旅行をしたためになんとなく惹かれて手に取ったのじゃないかなと思う。どれも非常に好みな作品だった。

映画は、家で「エクスペンダブルズ」シリーズ三作品、「ファンタスティック・プラネット」、「レイダース/失われたアーク聖櫃》」、「ジョー・ブラックによろしく」、「十二人の怒れる男」、「トランスポーター」、「アメリカン・フィクション」の九作。特に「十二人の怒れる男」は気に入った。脚本の力があまりにすごい。過不足ない登場人物と物語の流れ。完璧の一言に尽きる。非常に単純な筋かつ簡易的な舞台でありながら、その中に濃密なメッセージを込め、キャラクターに奥行きを持たせてある。不要な情報がとことん削ぎ落とされ、必要な情報を最大限詰め込んである。どこまで読み取ることができるかを完全に観客に委ねた、その思い切りの良さと完成度の高さに素直に感服である。

それから劇場でdolbyの「DUNE 砂の惑星」を鑑賞した。これは非常に良い体験だった。前作を自宅で鑑賞したから自信を持って言えるのだけれど、絶対に劇場で観るべき作品だと思う。視界全てをスクリーンで埋め、映像に没入する快感。脳みそが処理落ちしそうなほどの圧倒的な音声。きっとこの実写化は本当にハイレベルな作品なのだと思う。原作を読んで自分なりのイメージを作り上げてから鑑賞したかった気もするが、この素晴らしい映画作品をフラットな気持ちで味わうことができた点を喜ぶことにしよう。ストーリーのどこを切り取っても神話的で、全てのカットが宗教画のようで、どこまでもポールの哀しみに満ちた物語がこれである。表立っての政治的な動乱と、密やかにそれでいて活発に動く宗教団体との二本の軸に、先住民族と圧倒的な自然、成長し続けるポールの内面といった複雑な糸が絡み、その全てが鮮やかでありながらそれぞれの取り合わせも美しく、つまり単純にストーリーのクオリティが高く面白い。それから舞台の設定があまりに上手い。若干のネタバレになってしまうが、水資源の乏しい地域の先住民族と「体内の水の無駄遣いになるから涙を流してはいけない」という掟を用意し、ヒロインが涙を堪える場面を描くというのは、あまりにずるすぎる。砂虫のビジュアルがはっきりと描かれたのは今作が初めてなはずだが、非常に良かった。劇伴それ自体も素晴らしく、流れ出すタイミングも絶妙で、我々の興奮を誘う。それからdolbyで鑑賞して良かったと思う最大の理由として、砂虫を呼ぶ鼓の重低音が腑に響くのを味わえる点が挙げられる。あのとき、確かに、わたしの前に砂漠があった。

初旬に帰省した折には、故郷の山々が淡く桃色に色づいており、「山笑う」という言葉がふと浮かんだ。まだまだ朝の早い時間などには寒さが残っていたが、それでも木々は芽吹き始め、菜花は誇らしげに背を伸ばして黄色い可愛らしい花を見せてくれていた。

かはくの大哺乳類展で動物分類の基礎や哺乳類の分類について体系的に頭に入れることができたのが楽しかった。三月最終日には同じ上野で人生初の花見をして、これも良かった。文化人類学社会学とについて語っていた友人の話が忘れられない。時が経ち酔いが回り、それとともに花もどんどん開いていった。わたしも桜も同じ世界に生きているのだと思った。

季節の移ろいを、同じ時を生きる素敵な人たちと共有することができるという事実があまりに幸福で、恐ろしいくらい。同じ言語を共有しているお陰で、奥底に秘めた喜びが「喜び」という言葉を使わずとも伝わるのが嬉しい。言葉というツールを介して、魅力的な人の生きてきた道のりを、触れてきた文化を感じるのが好きだ。対面で会話をしていると、ほんのわずかな空気の揺れ動きから、言葉が発せられるまでの過程すらも味わうことができるかのような気がしてくる。もっともっと、知りたくなる。これから何を見て、何を思い、何を口にするのか、気になってしょうがない。生きる理由がまた増えた。

オッペンハイマーを観た

(ネタバレあり)

 

 

 

スクリーンの幕が降りた瞬間から、我々は足元のぐらつきを、視界のブレを、オッペンハイマーの引き受けた崩壊を、追体験する。我々はあの世界の中を今も生きているのである。

クリストファー・ノーランによる十二本目の監督作である本作、映画『オッペンハイマー』は、アメリカ合衆国における原爆開発計画・マンハッタン計画を率いた天才物理学者オッペンハイマーの半生を綴ったノンフィクション作品の実写化である。ノーラン作品らしい時間軸を行き来する作風や物理学への強い興味は健在で、彼の一ファンとしては純粋にその新作が嬉しい。映画それ自体の出来について言及するのならば、圧巻の一言といえよう。本作には二度のクライマックスがある。マンハッタン計画の最終実験を描いた場面と、オッペンハイマーの安全保障的な懸念を追及するラストシーンだ。前者では特に、劇伴が素晴らしい。実験の成功を祈る緊張と、崩壊の引き金を引く不安とのせめぎ合いとが、非常に鮮明に表現されている。後者では流れるような視点の切り替え、セリフからカットへの誘導が滑らかだ。どちらも我々観客の興奮をうまく引き出してくれる。この二場面に重心を置いている点から、この作品は決して科学や研究倫理だけを主題としたものでないことがわかる。これはあくまで、科学と政治の映画なのだ。ほとんどの場面で一貫して努めて色、とりわけ暖色を排除しているように見えたが、これは原爆の爆発、火炎のインパクトをより印象的にするためなのだろうか。

作品それ自体はとても良い。だからこそ、苦しい。

原爆の惨劇を描いていないという指摘があったらしいが、決してそんなことはなかったように思う。幅広い層にこの作品を届けることと、観客に原爆による惨状を理解させること、この二つの目的を両立させるにあたり最も絶妙なバランスを保った描写の塩梅と私の目には映った。映画 = 映像それ自体というわけではないのだと強く言いたい。原爆という兵器を筆頭に、国家権力の行使する暴力があらゆる側面で描きつくされ、観客は皆反省と後悔とを強いられる。

政治とは瑣末な事象に盲目であることなのだと何度も何度も懇切丁寧に我々を諭そうとするのが本作である。無論それはどうしようもない事実で、それ自体が悪いというわけでもなく、その特性を考えればやむを得ないものでしかない。政治の担い手は我々自身である。閉ざされているのはこの両の眼なのである。

検事の詰問は、オッペンハイマー越しに観客の我々を責め立てている。告発されているのは我々の浅薄な罪悪感に他ならない。原爆投下の成功に湧く合衆国民の熱狂は、スクリーン越しの我々を揺るがす。熱狂している彼らと、原爆投下地に生きていた人々とは、居場所と結果こそ違えどきっとその中身はなんら変わりない。凡人は皆等しく愚かで盲目で、我々は皆被害者面と浅薄な罪悪感とを使い分けながら生きている。新たな世界の幕を上げたのは、決してほんの一人の天才科学者ではない。開発を促進したのも使用を決めたのも戦果に歓声を上げたのも、オッペンハイマーただ一人ではなく、我々なのだ。罪を犯したのも罰を受けたのも、告発されたのも後悔したのも我々自身に他ならない。我々の罪悪感も舞台装置である。もはや誰にも責任を負うことができない今、浅はかな後悔の無意味すらも冷たく鼻先に突きつけられている我々は、どうすべきなのか。

エネルギーを前に、人間はどこまでも無力である。我々にできることは、目の当たりにした真実を誠実に引き受けることしかない。知識とは、世界と真理の追究とは、悦びではなく義務となったのだった。この悲観的な現実を前に、ノーランが唯一残した逃げ場は、愛というものの存在であろう。

それでもなお、やはり、我々は苦しまずにはいられない。これだけの作品が世に出され、多くの視線を浴び、たくさんの賞が与えられ、その上で戦場が残されている現実に。授賞式で剥き出しになる我々自身の盲目に。浅薄な罪悪感に。愛がどこまで我々の救いとなるのか。愛は世界を救うのか。責任感は、何の役に立つのか。誰も答えることのできない問いに、私は鬱々とした気持ちで、劇場から去る。

京都を歩く

春の陽だまりみたいな日だった。京都の街をぶらぶら歩いた。二条から丸太町、それから四条、烏丸のあたりまで。

きっちり並んだ碁盤の目を、まっすぐな辺に沿ってすこしずつすこしずつ訪ね歩く。道ごとに、町ごとに、同じ種類のお店が軒を連ねていることに気づく。着物をつくる家は着物をつくる家同士、薬を売る家は薬を売る家同士、和菓子屋さんは和菓子屋さん同士。祇園祭の山鉾も町ごとに作っていたことをふと思い出す。山鉾を守る町屋は今でも街中にぽつんと残っていて、途端に歴史が奥行きを得る。
「地縁的結合」
かつて教科書で読んだ文字列が目の前に浮かび上がる。

二条城は外国人観光客でごった返していた。露店や屋台も賑わっていて、店主の呼び声は高らかで、大昔の見世棚も、もしかしてこんな感じだったのかなあなんて思った。遠州の作ったお庭には松がすっくと立っている。寒空に青々しい針のような葉が、全体でふわふわとした輪郭を形作っているのをぼんやり眺めながら足を進めると、滝の音にはっとさせられた。池には鯉はいなかった。空の青に池の碧、それから松の蒼に満ち満ちている中で、満開の寒緋桜が眩しい。山茱萸か蝋梅か、黄色い小さな花もかわいらしく、やわらかくて甘い香りを漂わせている。まだ冬の装いの蘇轍をよそに、季節はぐんぐん次へと進んでいるようだった。

本丸は補修中で上がることができなかったけれど、二の丸だけでもお腹いっぱいなくらい。一歩踏み出すたびに床がきいきい鳴るのが面白い。襖絵は部屋ごとに、武家風の堂々たるものから公家風のやわらかで繊細なものまで、お客様用の威厳の満ちたものから家中の者用の質素であたたかいものまで、筆致が違っていた。床の間の漆の種類や天井の高さまでもが、部屋の用途ごとに使い分けられていた。天井絵は大政奉還の折に塗り替えられたらしい。釘隠しの家紋も、いくつかは葵から菊へと替えられたのだという。権威を作り出す装置としての建築。どこかしこで、物静かに、それでいて雄弁に、時の変遷が語られていた。

御所をふらふらしていると、端のほうにある九條家の遺構に辿り着いた。拾翠亭と言うらしい。その名の通り、木々と池とに囲まれた緑豊かな別邸で、借景としている東山の春先の緑も目に眩しい。水屋や小間にまでやわらかな陽光が入ってきて、壁も柱もどこかあたたかい。亭主と客の垣根を取り払うにあたって、こういうやり方もあるんだなあと、なんとなく思った。緑の合間から時折覗く椿の赤に目を奪われる。音も立てずに、翡翠が飛んでいった。

駅の雑踏の奥に見つけた書店に、なんとなく足を踏み入れてみる。地元でよく見るのとは違う書店チェーンは新鮮で、薄くはあれど確実にあるその書店特有の色を見つけると嬉しい。小さなチェーン店に置かれた柄谷行人に驚かされながら、見なかったふりをして哲学書の棚を通り過ぎる。たくさんの書棚の木立の中で、ひっそりと息を潜めるようにして佇む一冊と出会う。秘密を明かしたがっているみたいな装丁に心惹かれて表紙を捲ると、聞き覚えのない作者名と出版社名。どうしてもこの秘密を所有したくて、荷物が増えることも忘れて、気がつけばレジに向かっていた。物珍しい舶来品かのように鞄の奥底にしまい込んで、ほくほくした顔で帰りの新幹線乗り場へと歩き始めた。

2024.02について

二月が終わってしまった。閏日も大したことはしなかった。閏日なんてもともとないはずの一日なんだから、大したことをしない方が本来的な過ごし方なのかもしれないけれど。

今月はあんまり読書できなかったことが少し残念。梓澤要の「華のかけはし」を読んで、改めて江戸時代の天皇のあり方に興味が湧いたので、藤田覚の「江戸時代の天皇」を軽く読み直すなどしていた。それから、少しずつ読み進めている京極堂シリーズから「邪魅の雫」も。複雑な意図を解きほぐすように頁をたぐるのが面白い。最後のほろ苦さ、切なさにかき消されそうになりながらも確実に存在していた、一欠片の掠れゆく甘さが、このシリーズにしては珍しい気がして好きだった。トールキン作品に手を出すことができたのは本当によかった。ありがとう、きっかけをくれたひと。

本阿弥光悦展や和食展のため上野に月に二度も足を運んだのは、私にしては珍しいことだった。上野はいつ行っても活気がある。子供も老人もわんさかいる。噴水があるのが嬉しい。光悦の筆遣いには素直にため息が漏れた。博物館に行くと、大抵半日は薄暗い室内に閉じこもることになるから、展示を巡り終えた後の屋外はいつもよりも気持ち良く感じる。一番寒い季節のきりっと締まった空気と高い空は、一層嬉しい。

今月何より嬉しかったのは、大好きな「紅の豚」をスクリーンで鑑賞できたこと。まだこの空のどこかを豚が飛んでいるのかもしれない。同じように劇場で観た「哀れなるものたち」はすごく変だったけれど、聖書の要素が至る所に散りばめられていた気がして、楽しかった。小説の方も読みたい。「カラーパープル」は初めから終わりまで涙が止まらなかった。自分にも妹がいるからかもしれない。愛の形は決して性愛の一つだけじゃないよなって、素直にそう思えた。家ではいくつかのアメコミ作品に触れて、アメコミにはDCとマーベルとがあることを知ることができて、大きな飛躍という感じ。

日本酒やウイスキーを程よく飲んで、ほろ酔いの中でふわふわぽかぽかしながら、冬の夜の散歩をした。ほんの数駅歩いただけだけれど。冬はあんまり得意じゃない。でも、息が白くなることと、隣にいるひとの体温が輪郭がはっきり伝わってくることは、好き。意味のある話や意味のない話の隙間に、恋の始まりが垣間見える瞬間はすごく嬉しい。さっき食べた焼き鳥が美味しかったこと(塩麹で味付けしてあるのが美味しかった)とか、〆のパフェが不思議な取り合わせで口の中が楽しかったこと(日本酒フレーバーのジェラートに梅酒フレーバーのジュレに鶯豆に苺に、甘味と酸味と色々な風味との渋滞というかハーモニーだった)とか、最近飲んだ日本酒の中でどれが一番好きだったか(私は而今が好きだった)とか、さっき渡したチョコのこととか。恋人に求める一番の条件とか、恋の自分なりの定義とか、そういう価値観の些細な一致を喜び合うこととか、言葉もなくただ視線を感じることとか。何度も何度も通ってきた馴染みの道が、また新しい誰かと、新しい思い出と、言葉とで彩られていく。こうやって私は、いろんな思い出を上書きしながら生きていくのかなと思って、でも一度あったことを忘れることなんてできないと思い直して、蜘蛛の巣みたいに思い出と思い出とが結びついて絡み合ってもう自分でも解きほぐせないぐらいに複雑になって、そうやって私という人間が出来上がっていくのかもな、なんて思った。そういえば、蜘蛛の巣がテーマのアメコミ映画がそろそろ封切りらしい。誰か誘って観に行こうかな、なんて、しらを切ってみる。

2024.01 について

いまさら、1月の出来事を思い返して日記のようなものを書いてみようかなあと思う。というのも、今年の目標の1つは日記をつけることだから。そう言いつつ既に1ヶ月分くらい溜めてしまっているのだが……。

この1ヶ月間、アマプラで、『海賊と呼ばれた男』、『清須会議』、『千と千尋の神隠し』、『翔んで埼玉』、『Kingsman: The Secret Service』、映画館で、『NOPE』、リドリー・スコットの『ナポレオン』を観た。『NOPE』はIMAX上映で、とにかくものすごかった。画面がこちらに押し寄せてくる。飛行物体の迫力は映像だけでなくストーリーそれ自体からも滲んでいて、しかも魅力はそれだけでなく、見る・見られるということや使う・使われるということに対する意識や、人種問題や、映画業界についてのメタ的な描写も、自然と織り交ぜられていて、一度では到底味わいきれない良さがあった。それから『ナポレオン』は109シネマズプレミアムで鑑賞し、こちらは音響がものすごかった。砲兵将校のナポレオンを描いた作品だからこそ、お腹の底まで響き渡るような大砲の音を十分に味わうことのできるあの環境での鑑賞が、正解だったなあと思う。ストーリーの方を眺めると、至る所に彼の二あるいは多面性に関する描写が散りばめられていて、そうした断片を拾い集めるのが楽しかった。それから、煌びやかなドレスからボロボロの軍服まで、ディテールに凝った衣装を贅沢に味わえるのも良かった。ホアキンの、「英雄ナポレオン」ではなく「等身大の男」を体現する演技はとても彼らしくて、配役がすごいなあという感想。

読み終わった本は『黒書院の六兵衛』(上)(下)、『燃えよ剣』(上)(下)、三島由紀夫の短編集『女神』、『ガニメデの優しい巨人』、有吉佐和子の『開幕ベルは華やかに』、佐藤究の『Ank: a mirroring ape』、『サージウスの死神』、『QJKJQ』の10冊。試験期間なのによくもまあこんなに贅沢したなあと思うが、どれもこれも良かったので、これだけ味わえて良かったと言いたい。特に好きだったのは『開幕ベルは華やかに』で、美味しいものと”大人的な大人”が出てくる話が好きなんだろうなあと、しみじみ自分を捉え直すことができた。それから三島の『女神』は、表題作が特に好きで、若い女の美を細かく描くという試みはやはり良いものだなあと感じた。ここ最近、ずっと川端の『眠れる美女』も読みたいなあと思っているので、近々購入したい。ホーガン作品はやはりいつも地球人を肯定してくれるのが嬉しい。佐藤究作品はどれもこれも驚かされることばかりで、彼の作品は初めて読んだが、素直に好きだった。直木賞を受賞した作品や今後の作品も追っていきたい。

初めての経験として、コーヒーのカクテルを飲んだ。いつも飲んでる味なのにふわふわしてくるのが楽しかった。池袋のタカセという喫茶店にはまた行きたいなあと思う。そういえば、いろいろな日本酒を試した1ヶ月間でもあった。

それから、久々に鎌倉と江ノ島に行った。鎌倉駅で待ち合わせをする。待ち合わせ相手を見つけるときにはいつも、宝探しに成功したみたいな純粋な喜びと、ほんの少しの照れ臭さとがある。混んでいれば混んでいるほど嬉しい。人並みの間にちらちらと、自分と同じように照れ混じりの笑顔の相手を見つける瞬間の気持ちは、他の何にも代え難いんじゃないかと思う。1月とは思えない暖かな1日で、これ以上ない快晴で、相変わらず懐かしい江ノ電に乗っていると、家々の隙間から立ち上がるように見えてきた海はきらきら輝いていて、富士山もよく見えて、その瞬間を生きていた自分が祝福されているみたいだった。ふらふら歩き回った末に、お昼時を少し過ぎたころ、江ノ島の中でもかなり高いところに位置している魚釣亭という小料理屋さんでしらす丼を食べる。それからクリームあんみつも。あんみつってなんだっけ、と思いながら注文して、出てきたものを見て、うわあと思う。そうだ、これだ、という答え合わせの気持ち。いろんな味を口の中で楽しむ。傾いてきた陽をそれでも反射している海はずっと綺麗。何度も江ノ島には来たことがあるのに、洞窟に入るのは初めてだった。自分が足を踏み入れているその空間に、綿々と続く歴史があるのがなんとも濃醇な味わいで、各時代に生きた人々がいて、彼らもかつて私が今いるここに存在していたという事実に、自分のちっぽけな脳みそでは処理しきれないものを感じていた。ふらふらと半日かけて歩きながら、私は人と歩調を合わせるのが好きだ、と思った。傾ききった陽は、ちょうど山の陰に入ったところだった。冬はまだ肌寒い。

第二章の序文に代えて

ディズニーリゾートにまだ見ぬ我が子を連れて来たいと思うとき、人はひとつ大人の階段を上がるんじゃないかと思う。愛のバリエーションを増やした証拠なのだと思う。

愛にはいくつかの種類があると言うが、そのうちの複数をたった一人に抱くことはあるのだろうか。ルダスに始まり、エロスを経て、フィラウティアを学び、マニアを経由してフィリアに至る。プラグマの末にストルゲーを覚える。そんな人に出会えたとして、これを運命と言わずにいられるだろうか。

運命なんていう陳腐な言葉を口にするとは我ながら意外で、少し苦笑すらしてしまう。苦笑しながらも幸福を噛み締めてしまうところに、自分の捻くれた部分と素直な部分の境目を見つける。見つけて、そこから目を逸らすことなく、あるいはそんな自分を嫌悪することなく、真っ直ぐに見つめてそれもまた一興と微笑める自分は、随分と大人になったことに気付く。

ほとんど初めて、周囲の反対を押し切って一つの決断を下した。失敗でも良いと思った。何も死ぬわけではあるまい。失敗しても死に走らずに済むレジリエンスというか、自己肯定感というか、そういうものを今は持っているから。気付かせてくれる人がいたから。保険のようなお守りのような、そういうものが今はあるから。

世の中には、愛することが得意な人と愛されることが得意な人とがいるような気がする。そして自分は前者であると感じる。これからも愛を注がせてくれる人がいるのだとしたら、今すぐにでなくとも人生の終わりにはそうさせてくれる人がいるのだとしたら、あなたへの愛してるよ、の一言を以て締めの言葉とすると共に、感謝の意を表したい。

第一章のあとがきに代えて

恋人という役割の不在はかつて恋人であったひとの永遠の不在を意味するわけではないのだけれど、ついそんなふうに誤認してしまうのが、恋人という役割の特殊性なのだと思う。

狂おしいほどの愛おしさを持て余す生活の、ぽっかりと穴が空いたかのような感覚を味わうのは初めてではなくて、だから久々の感覚に再会かのような懐かしさすら覚えている。久しぶりだね。またしばらくよろしく。

きっとこういう生活は最後でもないのだろう。今後の人生においても少なくとも一度、かつて恋人であったひととの真の死別の際にはまたこれを味わわねばならないと思うと解脱したくもなるが、実のところ涙に暮れる日々というのはそう何度も味わえるものでもないので、その毒々しいまでの甘美さを最後の一滴まで飲み干そうと思う。

昨日まで記憶を反芻する度に胃液みたいな雫が分泌されていたけれど、ひとまずだいたいの消化は済んだようである。二人のことでこびりついて離れない記憶は無数にあるが、なぜかただ横を歩いていただけの瞬間が一等星のように浮かび上がってくる。その全てを繋ぎ合わせても、傍目にはしょぼいイルミネーションのかみのけ座にしか見えないのかもしれないが、そのくらいの恋でいい。怖気付かずに済む。

穏やかな内海を泳ぐだとか、小春日和に吹く風に逆らって走るだとか、そういう気分の日々だった。思い返せばこの一年、真にそのひとの不在を感じたことはなくて、物理的距離にかかわらず常に愛の息遣いを耳元で感じていた。気づけば愛されている実感を植え付けられていた。あなたはわたしとの出会いを画期だと呼んだ。わたしはそれを福音と呼びたい。