匿名

日記

オッペンハイマーを観た

(ネタバレあり)

 

 

 

スクリーンの幕が降りた瞬間から、我々は足元のぐらつきを、視界のブレを、オッペンハイマーの引き受けた崩壊を、追体験する。我々はあの世界の中を今も生きているのである。

クリストファー・ノーランによる十二本目の監督作である本作、映画『オッペンハイマー』は、アメリカ合衆国における原爆開発計画・マンハッタン計画を率いた天才物理学者オッペンハイマーの半生を綴ったノンフィクション作品の実写化である。ノーラン作品らしい時間軸を行き来する作風や物理学への強い興味は健在で、彼の一ファンとしては純粋にその新作が嬉しい。映画それ自体の出来について言及するのならば、圧巻の一言といえよう。本作には二度のクライマックスがある。マンハッタン計画の最終実験を描いた場面と、オッペンハイマーの安全保障的な懸念を追及するラストシーンだ。前者では特に、劇伴が素晴らしい。実験の成功を祈る緊張と、崩壊の引き金を引く不安とのせめぎ合いとが、非常に鮮明に表現されている。後者では流れるような視点の切り替え、セリフからカットへの誘導が滑らかだ。どちらも我々観客の興奮をうまく引き出してくれる。この二場面に重心を置いている点から、この作品は決して科学や研究倫理だけを主題としたものでないことがわかる。これはあくまで、科学と政治の映画なのだ。ほとんどの場面で一貫して努めて色、とりわけ暖色を排除しているように見えたが、これは原爆の爆発、火炎のインパクトをより印象的にするためなのだろうか。

作品それ自体はとても良い。だからこそ、苦しい。

原爆の惨劇を描いていないという指摘があったらしいが、決してそんなことはなかったように思う。幅広い層にこの作品を届けることと、観客に原爆による惨状を理解させること、この二つの目的を両立させるにあたり最も絶妙なバランスを保った描写の塩梅と私の目には映った。映画 = 映像それ自体というわけではないのだと強く言いたい。原爆という兵器を筆頭に、国家権力の行使する暴力があらゆる側面で描きつくされ、観客は皆反省と後悔とを強いられる。

政治とは瑣末な事象に盲目であることなのだと何度も何度も懇切丁寧に我々を諭そうとするのが本作である。無論それはどうしようもない事実で、それ自体が悪いというわけでもなく、その特性を考えればやむを得ないものでしかない。政治の担い手は我々自身である。閉ざされているのはこの両の眼なのである。

検事の詰問は、オッペンハイマー越しに観客の我々を責め立てている。告発されているのは我々の浅薄な罪悪感に他ならない。原爆投下の成功に湧く合衆国民の熱狂は、スクリーン越しの我々を揺るがす。熱狂している彼らと、原爆投下地に生きていた人々とは、居場所と結果こそ違えどきっとその中身はなんら変わりない。凡人は皆等しく愚かで盲目で、我々は皆被害者面と浅薄な罪悪感とを使い分けながら生きている。新たな世界の幕を上げたのは、決してほんの一人の天才科学者ではない。開発を促進したのも使用を決めたのも戦果に歓声を上げたのも、オッペンハイマーただ一人ではなく、我々なのだ。罪を犯したのも罰を受けたのも、告発されたのも後悔したのも我々自身に他ならない。我々の罪悪感も舞台装置である。もはや誰にも責任を負うことができない今、浅はかな後悔の無意味すらも冷たく鼻先に突きつけられている我々は、どうすべきなのか。

エネルギーを前に、人間はどこまでも無力である。我々にできることは、目の当たりにした真実を誠実に引き受けることしかない。知識とは、世界と真理の追究とは、悦びではなく義務となったのだった。この悲観的な現実を前に、ノーランが唯一残した逃げ場は、愛というものの存在であろう。

それでもなお、やはり、我々は苦しまずにはいられない。これだけの作品が世に出され、多くの視線を浴び、たくさんの賞が与えられ、その上で戦場が残されている現実に。授賞式で剥き出しになる我々自身の盲目に。浅薄な罪悪感に。愛がどこまで我々の救いとなるのか。愛は世界を救うのか。責任感は、何の役に立つのか。誰も答えることのできない問いに、私は鬱々とした気持ちで、劇場から去る。