匿名

日記

夏じゃない夏みたいな話

カウンセラーが「今、わたしは何かあなたにとってとても大切なことを聞いたかもしれない。次の予約日にはその話をしましょう」と言って立ち上がった。彼女の後ろについて部屋を出て、梅雨の前にしては夏らしい太陽の下に出て、電車に乗って、その間中わたしは自分の気持ちのことを考えていた。この間からずっと続くざわざわとした心をどうにかしたくて、やっとなことでその雑音をかき分けて聞き取った「本を読みたい」を叶えてあげることにした。

駅の近くの本屋で、好きな作家のまだ家にない短編集を数冊手に取って、支払いを未来の自分に任せて、行きつけの喫茶店に向かう。小さく流れるジャズ。チャカチャカとした食器の喧騒。ひそひそ話すお客さん。それから、1人で来ているお客さんのめくる本のカサカサとしたざわめき。とびきり甘いカフェラテとほんの少し塩気のあるバタートーストを頼む。駅前のおしゃれな人たちが行き交うのを時折眺めながら、他のお客さんに埋没したわたしは本のページをめくる。お冷のグラスまで空になるころ、わたしは買ったもののうち1冊を読み終わる。その頃には心の雑音が消え去っていて、かわりに、妙なわたしに気づく。自己開示が好きなたちだったのに、なんだか急に、誰にも自分を見せたくない気持ちになっていた。

店の外に出ると、陽の光はさっきよりすこしやわらかで、薄手のカーディガン越しにわたしを撫でる風はほのかに湿気を含んであたたかで、初夏というより夏のようだった。夏の夕暮れ。

高いヒールを履いて歩くコツは、かかとをまっすぐコンクリートに突き立てるみたいに下ろすことだ。地面をいじめるみたいに帰る。家の近くの花屋にひまわりが並んでいた。本当にもう、夏なのかも。