匿名

日記

青のこと

夕方の風がぬるくなって、群青と濃紺の境に位置するくすんだ藍色の空に映える電光掲示板。あまりにも初夏の夕暮れすぎる景色。こういうときにビールが思い出されるのは、ビールの黄色が青の補色だからだろうか。それとも、単にビール会社の広告を目にしたから? 摩天楼のせいで四角く切り取られた空に目を向けようとしても、どうしても情報が目に入る。圧倒的な情報量に、辟易するというよりも押しつぶされそうになってしまう。

1日の終盤の働かない頭と動かない手足を最後の力で回転させて、駅に向かい、電車に乗り、すこししてからふと車窓に目を向けると、ぽつりぽつり点きはじめたマンション高層階の灯りが、彼らなりのゆとりある生活を物語っている。

虚しさに打ちひしがれているわたしにはお構いなく、電車は最寄駅へと滑り込む。慣れ親しんだ東京湾沿いの小さな町の磯臭さにちょっと安心して、そんな自分の田舎臭さにかなりうんざりする。多摩川を越えて通学していることを思い出して、引け目を感じる。

この町とあの情報まみれの街は、同じ空の下にあるんだとしても、同じ日本にあるんだとしても、地続きの関東平野の上に同じような建築会社が同じようなビルを建てているだけなんだとしても、てんで別物だ。老人しかいないこの町で一番の美人だ秀才だなんてちやほやされたって、井の中の蛙というか、湾を大海だと思い込んでいるだけのハゼというか、とにかく調子に乗ってるだけの無知な小物という感じがして、一層惨めな気持ちになる。

こんなとき、きっと人生を諦めたおじさんはビールと一緒に惨めさを飲み下すのかな、なんて考える。またビールのことを考えていた。きっと、ブルーアワーの空と濃紺の海の、その青のせいだと思う。

「君」のこと

今年は、服や靴やピアスや下着や、とにかく身につけるものをたくさん買った。どれも、その時その時で違う「君」に会うために買った。特定多数の「君」をなんとなく念頭に置いて、歌を詠んだりもした。

「君」はわたしを色んなところに連れていってくれた。バーとかフレンチレストランとか、水族館とか遊園地とか、二人きりの観覧車の中とかベッドの上とか。

「君」の属性はどれも違っていて、「君」が好むわたしの特性もそれぞれ違っていた。綺麗な言葉をつむぐ「君」も、機械オタクの「君」も、文学好きの「君」も、虫捕りにハマってる「君」もいた。勉強熱心な「君」もいたし、仕事に疲れた「君」もいたし、サボり癖のある「君」もいたし、人生に疲れた「君」もいた。たくさん食べるわたしを褒める「君」と、わたしの丁寧な仕草に微笑む「君」がいた。青い服を着たわたしに眩しい視線を投げかける「君」もいたし、わたしのロングスカートの裾が揺れるのを目で追う「君」もいた。

でも、どの「君」にも共通していることがあった。それは、どの「君」もわたしの人生を変えなかったということ。そして、どの「君」のために買った服も靴も、わたしを特別なところへは連れて行かなかった。

「君」の人数を数えるのが億劫になったくらいのとき、ふと気づいた。わたしをどこか特別なところへ連れていくことができるのは、「君」じゃなくて、彼でも彼女でもあの子でもあなたでもなくて、わたしだけだった。わたしの本当に行きたいところ、本当に好きなもの、本当に落ち着ける場所を知っているのは、わたししかいなかった。

「君」頼りのわたしは、今年に置いていくことに、決めた。

思いやり

馴染みの駅の階段を、ホームの方へと降ってゆく。政治家の訃報を耳にし、「とうとうこんな国になってしまった」という人々の反応を目の当たりにし、私はその「こんな国」に住んでいるんだなあとぼんやり考えた。

草刈機の音が聞こえる。草の匂いがぷうんとかおる。曇りの日は、晴れの日や雨の日よりも、匂いや気持ちが濃く感じられると私は思っている。だから、嬉しい日が曇りだとそれはもうとっても嬉しいのだけど、なんとなく沈んでしまうような日が曇りだと、最悪なのだった。

刈られてゆく草に思いを馳せながら、あるいは撃たれた人のことを考えながら、私は死について考えていた。陰鬱な気分。とはいえ、いつものように背筋は伸ばし、胸を張り、自分が一番美しく見える姿勢は崩さなかった。この日の私は、私を一番綺麗に見せてくれるコーデに身を包んでいたから。コバルトブルーのノースリーブリブニットに、黒のマーメイドスカート。階段を降りながら、大学生らしい男の子と目が合う。すれ違う瞬間、彼の視界が私一色になったのを私は見逃さなかったし、そしてそれは当然だと思った。

それでも、彼が声をかけてきたのには驚いた。私はホームをずんずん進んでいたし、死について考えている人に特有の表情を浮かべていたに違いないし、何よりイヤホンをしていたのだ(有線のイヤホンは、その存在がよく見えるからナンパ避けにはちょうどいい)。

「連絡先を教えてもらえませんか」
顔を赤くしている彼は、私にそう言った。どう見たってナンパ慣れしていなさそうなその姿に好感を抱いた私は、あえて怪訝そうな顔をしていくつか質問を投げかける。そして、いかにも「やっと警戒が解けてきましたよ」みたいな顔をして、その申し出に応じたのだった。その時にはもう、元総理のことは忘れていた。

世の中にあるのは、わかりやすい思いやりだけじゃないと思う。きっと、ナンパ慣れしていない彼のナンパは普通思いやりとは呼ばれない類のものだろうし、むしろ迷惑行為に分類されるかもしれない。それでもその時の私にとって、あれは紛れもなく思いやりだった。「思いやり」の辞書的な意味は「相手に立場に立って物事を考えること」らしいが、相手の立場に立ったつもりが自分のエゴを押し付けているに過ぎないことだって山ほどある(例えば千羽鶴とか。そしてそれが思いやりになることだってないわけじゃない)。私は「思いやり」を「自分にとってありがたいと思える行為」だと思う。だから、彼のナンパは私にとっては思いやりなのだ。電車の中で青い顔をして蹲る私にロマンスグレーのおじさまが席を譲るのと、沈んだ面持ちの私に顔を赤らめている学生風の男の子が連絡先を聞くのも、行為の受け手たる私が思いやりだと思ったら、それはもう、紛れのない思いやりなのだ。

怖い悲しいを混ぜた感じの

父が癌かもしれないらしい。

1週間ちょっと前にひどい腹痛を訴え、母の勧めで病院に行き、そのまま紹介状を書いてもらい、大きな病院に行ってMRIを撮ったらしい。

その結果によれば、膵臓と肝臓に影があって、こんど検査入院をするらしい。

 

コロナ禍で、死の気配が普段より身近にあるような気がしていたのに、いきなりそれよりもっとずっとぐっと身近に現実的な死が迫ってきて、自分が今まで病を軽視していたことを実感した。

 

怖い。でもそれを口にするのはもっと怖い。だからとりあえず文字にする。

父の方がもっと怖いと思う。悲しい。

 

元から新興宗教やなんかにハマりがちな母は、「糖は癌の栄養だからよくない」と言い出した。言い出すと思った。癌は細菌・ウイルスそのものなわけじゃないし。確かに細胞分裂には糖分使うんだろうけど、糖を摂らないと癌云々以前に死ぬ。

生物基礎の知識しかないけど、確かそうじゃなかったかな。私には医学的なことは何もわからないけど、糖を断つとか体をあっためるとかよもぎ茶を飲むとかにプラセボ以上の効果があるんだろうか。ソースが知りたい。母が狂ったらと思うと怖い。

母を支えたいのに怖いとしか思えない自分が悲しい。

 

むかし、過呼吸になった私を抱きしめてくれた父の、腕の力強さが忘れられなくて、父がいなくなるのかもしれないと思うと息ができなくなりそうになる。もう抱きしめてくれる人はいなくなるかもしれないのに。悲しい。

 

妹を心配させたくない。妹には女子高生の生活を楽しんでほしい。

私は冷静でいなきゃいけないと思う。

笑顔でいなきゃいけないと思う。

難しい。

父が癌かも、と聞いてから、毎日息が苦しい。

そんな弱音を吐いたって何にもならないことはわかってるけど。全てが難しい。

人間を辞めたくなることしかないけど、父のことを思うとそんなふうに考えるのすら最低な気がするし、逃げ道はないし、いきなり肌寒くなった深夜に煌々と光る蛍光灯の下で下着姿のままスマホをいじって気持ちを吐き出さないと本当に呼吸が止まってしまいそうになる、愚かすぎる自分を捨てたい気持ちは永遠に変わらない。

寝る。

「千と千尋の神隠し」を劇場で見て思ったこと

はじめ、千尋はひとりで立てないでいる。

トンネルを通り抜けるときはお母さんの腕を、初めての夜を迎えたときにはハクの腕を掴み、釜爺のボイラー室に行くときにも足がすくんで階段にしがみついている。

でも、だんだん手を離して歩く時間が増える。

そして最後は、ひとりで橋を渡り、湯婆婆のところへ自分の足で歩いていく。ここは最初の場面、息を止めた千尋がハクと共に橋を渡る場面と対照的に描かれているし、直前の、坊がひとりで立てるようになった場面からも暗示されていると思う。

帰りのトンネルをくぐり抜けたあとの千尋の表情は始まりの場面とは打って変わってキリッとしていて、直後に銭婆の編んでくれたヘアゴムが光を反射し、千尋は魔法に頼らずに自力で自分を変えたんだと気づく。

トンネルを通り抜ける場面では最初と同じようにお母さんの腕に掴まり、お父さんは最初と同じように「足元に気を付けろ」と注意をする。千尋はきっとあの世界でのことを完全には思い出せなくなっているのだ。でも、銭婆が言っていたように、「一度起こったことは忘れない、思い出せないだけ」なのだ。

きっと千尋の意識の奥底には、ひとりで歩ける強さがひっそりと根付いているに違いない。

(エンドロールは千尋の記憶の切れ端ではないかと思う。ちひろはのちの人生で定期的にあの景色をどこかにふっと見出すのだ。思い出せない記憶は割れた鏡のようで、心は過去に映した景色を散り散りに思い出すのだ。)

 

 

 

 

ハクは油屋に来た際「魔法使いになりたい」と言って湯婆婆の弟子となったが、きっとそのときには魔法は最後には何も遺さないということを知らなかったのだろう。

でも、ハクはそれに気づくことができた。過去に "魔法に頼らずに" 救った相手である千尋が呪いを解いて、名を取り戻してくれたから。

そして魔法が何も遺さないことを知れたのだ。

呪いが解け、名を取り戻したハクは、もう大丈夫。わたしはそう思う。

 

 

 

 

カオナシの欠点は、自分の声で自分の意思を伝えられないところだった。

他者の声を借りなければ意思を形にできない。

でもそれでは本当の思いは伝わらない。

また、声が大きくなればなるほど周囲に及ぼす影響は増し、ついでに与える害も大きくなってゆく。

適切な声量で、自分の声で、伝えることが大事なんだと思う。

また、カオナシは他の "黒い半透明の人々" と違って完全に他人に依存して生きている。すごく辛そうに見える。

他の "黒い半透明の人々" は、暗いながらも穏やかに、自分の顔を持ち、静かにあの街に息づいているのだ。それがその瞬間の彼らの居場所なのだろう。カオナシだけが、自分のいま居るべき場所を見つけられずにいたのだ。最後にはいるべき場所を見つけ、穏やかで慎ましい幸せを手にする。

千尋も、始めの場面では家庭内に窮屈な居場所しかなかったのだと思う。

元の世界に戻ってからも両親は変わらないはずだ。しかしいまの千尋には自分の居場所を自分で作り見つけ出す能力がある。元の世界もきっと、今までとは違うものになっているはずだ。

 

 

 

 

"黒い半透明の人々" にもいくつかの形態があって、川から這い上がってきて油屋の手前の街にいるゆらゆらとした形の者もあれば、何となく人間らしい形で電車に乗り大荷物を抱えて駅に消えていく者もある。

そして彼らは、この物語に出てくるキャラクターの中で、唯一足音を持たないのだ。

これは自論だが、物語において足音は、その存在の確実性を表しているのではなかろうか。

我々がいま住うこちらの世界では神々の足音を聞くことができない。こちらの世界は我々のためのものなのだ。

一方あの世界は八百万の神様のためのものである。だから神様方には特徴的な足音がある。

ハクや千尋やリンにも足音があるが、神々ほどはっきりとした特徴的な音ではない。彼ら彼女らは、いまは確実にその世界に存在しているが、本来住まうべき場所は別にあるのではないか。

そしてカオナシや "黒い半透明の人々" にとってあの世界は仮住いの場所であるはずだ。彼らは死者の魂で、だからいつかは生まれ変わる。

海上を走るあの電車は、神々の世界と我々の世界、言い換えるならばあの世とこの世を結ぶものなのだろう。

釜爺が「昔は帰りの電車もあった」と言っている。きっといまよりもずっと昔には、あの世とこの世がすごく密接だったのだと思う。

いまでは死んだこの世からあの世へ向かうのも、あの世からこの世に生まれ変わるのも、神でない我々には一方通行である。

行き来できるのも一方通行なのも、どちらが良いとか悪いとかそういうことではなく、ただそういうことなだけで、でもそれがハクの運命を変えたのだった。

神様の悪戯か、世界にはたびたびそういうことがあるのだ。

 

アセチルコリン

湯船に浸かるならまだ日も暮れないほどの時間帯が良い。人の活動する空気を感じながら怠惰に浸かるのが良い。

深夜の誰もが寝静まった時間に浸かるぬるい湯が一番良くない。体温程度の湯はアセチルコリンの分泌を促し身体の動きを抑制する。上がるのが億劫になりだらだらと湯が水になるのを待つことになる。

江國香織の小説はそういう、何か漠然とした気持ちに潰れそうになりながら読むのが良い。陳腐な表現をするならば、一人の寂しさの中で読むからこそ人物の息吹を身近に感じることができる。

寂しさとか不安感などという数文字の言葉でこの重石の感覚が伝わるはずはないのだ。痛みとも甘さともつかないこの澱は夜が深くなるほどに明確な輪郭を持ち始める。そうなる前に床につかないと、とわかっているのにどうしてもその淵に沈みたがる自分がいる。生を悲観し世を憂い空が落ちるのを案じるようなある種古い漢詩のような感情に浸るのは快感とさえ言える。

深夜

濡れそぼる街を包んだ秋雨が赤い息吐く少女を冷す

雨はしっとりと降り続いている。濡れ揃った街は秋というよりむしろ冬の空気を湛えていて、息を吸い込むとマスク越しにも肺に冷気が伝わる。恋愛感情はただのエゴだと気付いてしまった瞬間、私の恋は崩れたのだと思う。

 


爪切りのぱちんぱちんという音が冷ややかな部屋に響く真夜中

日付を跨ぐと空気は余計に冷えて、風呂上がりの火照った体がだんだんと熱を失っていく感覚がなんとなく心地よい。伸びた爪の先を見つめたら哀しさが込み上げた。

 


真夜中の部屋に充電で蓄えたエネルギーを吐き出す四角形

深夜の何もしたくない瞬間に体を動かすエネルギーは、さてどこから生み出せば良いのか。モチベーションとか言うものを考えるのでさえエネルギーを必要とするのである。冷たく硬い床にしゃがみ込みひたすら携帯の明るい画面をタップしていることしかできない0:23。