匿名

日記

ゴジラ-1.0を観た

(ネタバレ有)

 

 

 

 

世界からこれだけゴジラが注目されてる中で戦争の象徴としてのゴジラをきっちり描き切ったのはすごいよな、さすが70周年だけある。安直に日本を賛美する意図はないんだけど、ここで「(国土を焼け野原にした/ゴジラを目覚めさせた)アメリカめ……」ってなるんじゃないのが日本の作品だなあと感じた。その描き方に違和感も覚えなかったし。アメリカに腹立たしい表情を浮かべるシーンこそあれ、憎む描写はガチで1シーンもない。時の政府批判はあったけど。制作期間コロナ禍とかぶってたこともあって、若干そういう意図もあったのかなあとは思う。

まあそんなふうに注目されてたこともあったから、男女比云々って批判出そうだけど舞台が舞台だけに仕方ないよな〜と鑑賞中から思ってた。案の定批判出ててそんな重箱の隅つつくか……というのが素直な気持ち。あのストーリーで他にどこに女出すんだ。女が戦争行く世界線だったらまあわかるけどあの物語においてはそうじゃなかったじゃん(現実にソ連なんかでは女性狙撃兵もいた!ってのはそうだけど日本の戦後のリアルなディテールを追求しようとした映画だったし特攻兵だとか艦乗りの話だし、、)。やはり女はケア要因だのなんだのも言われてたけど、不快な人は現代か別世界線を舞台にして全然違うコンセプトで物語を描き直せば良いんだと思う。あれが歴史的リアルの追求でないものに重きを置いてるなら男女逆転させて描いても違和感ないだろうなって感じだったし。女子供や脱走兵含め弱者に当たるキャラクターも、彼らの存在は最終的に否定ではなく肯定的に描かれたもんな。女子供の存在が自分の存在と生と未来とを肯定するし、人は誰しも生きねばならない、みたいな。あと安藤サクラをああいう役回りにしたことで子を持つことへの否定への否定みたいなものを感じた、希望や生の象徴としての子供、みたいな。

親ってのは自分の腹を痛めたかどうか、射精したかどうかってので決まるんじゃないんだな。もちろんそこも重要なんだろうけど、赤の他人が拾ってきた縁もゆかりもない赤ん坊でも、その子に生きていてほしい、生きていてほしいから自分の身に降りかかる犠牲は厭わない、一方でその子と共に生きていきたいその成長を見守りたい、という気持ちは紛れもない親のそれだと思う。というかそういう気持ちを抱けるのが本来的な共同体ってやつなんだろうか。

生への執着をかっこわるく惨めにするんじゃなくてかっこよく美しく描くってのは素晴らしい試みだよな。絶望と憎悪の連鎖を生み出す死に対する「生」という描き方。「武士道とは生きることと見つけたり」ってふと思った。

泥臭さをかっこよく描く点も良い。コスパとかタイパとか効率を求めがちな令和において「今できることをとにかく目一杯やる」ってのは良いメッセージだなあと思う。「奇跡が起きるかどうかじゃない、やらなきゃ奇跡も起きない」ってセリフ、好きだった。

全体主義の是非じゃなくて、個人の決断の行き着いた先にある全体への貢献の価値を描いてる感じがした。あと全体主義の否定と集団に対する責任感の欠落は別物なんだよなーって改めて思った。

安直に軍備をかっこよく描くわけでなし、むしろ戦争への反省を改めて意識させるストーリー(特に水島というキャラクターの存在)。同時に自分・愛する人・共同体(ひいては我が国)を我が手で守るための責任を重く格好良く見せる構成(責任を取りたくないが故の逃げに走る層を刺すような感じ)。生や生きがいや未来、弱者の存在の肯定。災害としてのゴジラと政府(あるいはどこか遠くの人たち)主導の対策を淡々と描いたシン・ゴジラと対をなす、「令和のゴジラ作品」としてはこれ以上ない出来だったのでは。

夏の終わり

夏の終わりの夕立が迫っていたので、犬の散歩を足早に切り上げた。帰ったらすぐにパスタとポトフを作ろうと思っていたのに、軽い低血糖を感じて、急いで何か軽く食べることにした。冷蔵庫を開けると、賞味期限切れのチーズアソート、ほんの少しだけ残ったコンビニの安ワイン、買ったばかりの牛乳、ポトフにされるのを待つ人参玉ねぎじゃがいもなどなど。震える手でなんとか冷蔵庫の戸を閉めたところで、貰い物の豆菓子が少し残っていたのを思い出す。どうにか湯を沸かして緑茶を淹れ、菓子を皿に移し、読みさしの本をセッティングしたところで力尽きた。こんなときにまでティータイムを演出したがる自分に軽くうんざりしながら、どうにか腕を持ち上げて梅かおる豆菓子を口に運ぶ。まず口に広がる塩味と、噛めば噛むほど増す小麦由来の甘みと、豆の香りが幸せを連れてくる。命のために必死に食べ始めたのに、食べ始めると幸福につながって、なんだかわたしはちょろいなあと思ったり、いやしかし豆菓子の実力がすごいのだと何かに対して言い訳してみたり、する。

雷が鳴り始めた。早めに帰ってきて正解だった。夏の終わりは、陽が落ちてすぐの深い青の空がやってくるのが早くなってきて、少し切ないけれどその清涼感は嫌いじゃない。読みさしの本がクライマックスに差し掛かるときの気持ちと、少し似ているかもしれない。似ていないかもしれないけど。終わってほしい気持ちと、終わってほしくない気持ちのごちゃまぜになった感じ。今年の夏は海に始まり海に終わった。というと少し説明不足で、去年の暮れに引っ越したものだから、今年は生まれて初めて海から離れたところで夏を過ごしたのだった。それで、夏の始まりと終わりに海沿いの街を訪れたのがより印象的なものとなった。江ノ島と、熱海。日常から遠いものになってしまった海なので、これまでよりも注意深く観察してみたところ、岩を打つ波と沖合をのんびりたゆたう波とが同じものとは思えなくて、それでも同じものなんだという事実が、よかった。

好きな人と過ごす夏というものは初めてだったので、どうにかこうにか(というほど波瀾万丈だったわけではないけれど)一夏を越せたことへの安心感と、もうすでにほんのちょっぴりの懐かしさなんかを感じていて、そういうことに夏の終わりを実感する。来年もこんなふうであってほしいな、と思う。まるっきり同じでなくても良いけれど。どんな波も波であるように、激しくたって穏やかだって、おんなじ言葉で言い表せる関係性でありたい。

夏じゃない夏みたいな話

カウンセラーが「今、わたしは何かあなたにとってとても大切なことを聞いたかもしれない。次の予約日にはその話をしましょう」と言って立ち上がった。彼女の後ろについて部屋を出て、梅雨の前にしては夏らしい太陽の下に出て、電車に乗って、その間中わたしは自分の気持ちのことを考えていた。この間からずっと続くざわざわとした心をどうにかしたくて、やっとなことでその雑音をかき分けて聞き取った「本を読みたい」を叶えてあげることにした。

駅の近くの本屋で、好きな作家のまだ家にない短編集を数冊手に取って、支払いを未来の自分に任せて、行きつけの喫茶店に向かう。小さく流れるジャズ。チャカチャカとした食器の喧騒。ひそひそ話すお客さん。それから、1人で来ているお客さんのめくる本のカサカサとしたざわめき。とびきり甘いカフェラテとほんの少し塩気のあるバタートーストを頼む。駅前のおしゃれな人たちが行き交うのを時折眺めながら、他のお客さんに埋没したわたしは本のページをめくる。お冷のグラスまで空になるころ、わたしは買ったもののうち1冊を読み終わる。その頃には心の雑音が消え去っていて、かわりに、妙なわたしに気づく。自己開示が好きなたちだったのに、なんだか急に、誰にも自分を見せたくない気持ちになっていた。

店の外に出ると、陽の光はさっきよりすこしやわらかで、薄手のカーディガン越しにわたしを撫でる風はほのかに湿気を含んであたたかで、初夏というより夏のようだった。夏の夕暮れ。

高いヒールを履いて歩くコツは、かかとをまっすぐコンクリートに突き立てるみたいに下ろすことだ。地面をいじめるみたいに帰る。家の近くの花屋にひまわりが並んでいた。本当にもう、夏なのかも。

五月の雨の次の日

梅雨のすこし手前。雨の降った次の日のの夕方は、風が湿って生ぬるくて、陽が落ちるのが遅くて、ひとの活動とわたしの生活の時間がずれるのが面白い。

みんなが働いている時間に、わたしは1日を終える支度を始める。いつもは帰宅後くたくたの体で手をつけるような、洗濯物を畳むのとか、犬の散歩とか。まだ外が明るいからなのか、すれ違うひとは皆余裕がある顔つきで、犬に微笑みかけわたしに挨拶してそのままの表情で歩いていく。わたしは誇らしげな顔で犬を連れて街を歩く。犬も誇らしげな顔でわたしを連れる。

緑道には、しおしおの躑躅の横でわたしみたいに誇らしげな紫陽花が咲いている。真緑の道。蚊柱が立つ。わたしが顔を顰める。季節の終わりの躑躅みたいに。家に帰る。

社会がまわっているその瞬間に、落ちかけの陽の光だけを光源に、わたしは1人食卓で映画を観る。嘘。足元の犬と2人で。全部の部屋の窓を開け放すと風が通って気持ち良い。甘くてしゅわしゅわした飲み物に味の薄いチーズとほんのり甘いクラッカーを取り合わせて、良い感じに適当に好きな皿に盛り付けて、テレビの音量を上げて。薄暗いリビングがわたしのシアターになる。世界がわたしのものになる。まだまだ夜は長い。ずっと夜のままでいいのだ。

好きだとか

恋人と高いところにのぼるのが好きだ。夜であればなお良い。地上の無数の光を眺めて、言葉にできないほど壮大で美しい光景を形作る人々を尊敬しつつ、いずれわたしたちもそちら側へ足を踏み入れるのだろうと、そしてこの世界も捨てたものではないと、恋人の体温を感じながら思うのである。恋人がどう思っているのかは知らない。知らないままでもいい。彼がわたしの隣にいればそれでいい。

恋人の撮るわたしが好きだ。頼んだわけでもないのにたくさんわたしの写真を撮ってくれる。わたしの感覚では決して可愛いと思えないわたしの写真までもを自慢げにひとに誇ってくれる。どの写真に写るわたしも、可愛いとは言えずともものすごく幸せそうなのは伝わってくる(実際ものすごく幸せなのだ)。我ながら、幸せそうな自分を見ると幸せな気分になれるので、何度も見返してしまう。恋人と出会う以前の写真を見返しても、こんなに幸せそうなわたしはどこにもいない。恋人とのデートのために服や靴やアクセサリーを新調したり、メイクを変えたり、髪や眉のサロンに行ったり、何より恋人によるたくさんの甘いささやきのシャワーを浴びているおかげか、以前より格段にいわゆる「かわいい」という語が似合うようになったような気すらする。

恋人と過ごす時間の全てが笑顔と幸福に満ちている。どの瞬間を切り取っても、もしわたしがバンドマンだったら歌にしていただろうし、カメラマンだったらフレームに収めていただろう。とはいえわたしはカメラマンでもなければバンドマンでもない。ほんの少しだけ気持ちを言葉にすることに慣れている人間でしかないので、こんなふうに数百文字の文章に幸福を切り取ってみたりしているのである。

わたしは、恋人の恋人になった後のわたしが好きだ。

慣れと成長

玉ねぎを切りながら、昔のわたしが毛嫌いしていたバンドの曲を聴いていた。どの曲も似たり寄ったりで、等しく若者の汚さをなんとなく「いい感じ」に昇華している。性だとか愛だとか夢だとかについて語るような、がなるようなボーカル。はやるギターと、それを抑えるようなベースと力強いドラム。これまでのわたしはこの青さが嫌いで、どうしても聴けなくて、でもなぜか今年のわたしにはそれが好もしかった。

服や容姿にお金を出して、いわゆる女らしい格好をして、毎朝長い時間をかけて社会に迎合する過程を踏むのが、楽しいと思えるようになってきた。幼い頃は自分の肉体が女であると認識するのすら生理的に嫌だったのに。今や、他人から女性として扱われ性的に値踏みされるのを心のどこかで喜んでいる自分がいる。社会的に見ておかしくない存在になれていることに安心している。昔の自分が今の自分を見ても、きっと同じ人間だとは思えないはずだ。

料理をするのが苦じゃなくなった。恋人の口に入るものを作る技術が自分にあることが嬉しかった。恋愛が自分の幸福度や人生の選択肢を左右するようになるなんて思っていなかったのに。結局わたしも無個性で普通の人間のうちの一人として生きていくんだろう。

毎月股から流血するイベントにも慣れて、自分の中は生臭い液体で満ちていることに気づいた頃、こういうことの積み重ねの先にあるのが死なんだとふと思った。

台湾の日没後の高鐵の話

好きな人ができて、好きな人が恋人になって、恋人と離れ、海外に来た。

海外とはいえ台湾だし、離れたとはいえほんの1週間だし、ただの大学の研修である。せっかくの機会なんだから日本のことなんて忘れて思う存分異国文化と学びに身を沈めたい…なんて思う自分もいないではないが、それでもやはり、高鐵の座席で知らないおじさんの隣に1人で座っていると、隣にいるのが恋人だったらなあと思えてならない。

そろそろ19時半。車窓に目をやれど視界にはこちらを睨んでくる自分の鏡像だけ。

スマホの画面越しに恋人とやり取りする。台湾では街中でのマスク着用が義務ではないらしいが、電車のような空間はまだマスク着用を要請している。マスク社会に感謝だ。にやけた口元を隠させてくれてありがとう。

台湾は日本より暖かくて湿度が高くて、街並みは日本と大差ないが空気はまるで違う。どちらかと言うとカリフォルニアに近いような気すらする。それが余計異国情緒を掻き立て、恋人との距離の隔たりを感じさせる。どう足掻いても恋人の存在、いや、恋人の不在が追いかけてくる。

鏡と化した車窓越しに、憂いを帯びているとも無感情ともとれる自分の目がこちらへ何かを訴えてくる。口元が緩んでいることに気づく他の乗客などいないだろう。会えないことへの嘆きが漏れる目元と、連絡を取れていることへの歓喜を示す口元と、果たしてどちらが本当なのか。

そろそろ20時。恋人とのやりとりが途切れた頃、ふと車窓の遠くに目をやるとネオンサインに気づく。見慣れぬ繁体字がまたもや孤独を加速させる。手持ち無沙汰に指輪を外しては再度指に嵌めるなどして、弄んでみる。爪先の剥げ始めたネイルが我ながら痛々しく、図らずもため息が出る。車窓に映る自分も、アイメイクはよれて髪はぱさつき、お世辞にも魅力的とはいえない。それでもきっと恋人は、そんな自分すら褒めてくれるんだろうな、などと惚気てみる。

いつかまたこの景色を、次は恋人の隣で、見ることができれば、そんなにも幸せなことは他にないだろうと思う。